なんかはてブで挙がっていた記事に妙な違和感を覚えたのでメモをしておく。

野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さんへ - 紺色のひと

まぁ大体もう既にブックマークコメントで言われていることなんだけれど。

はてなブックマーク - 野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さんへ - 紺色のひと

nemoba 人と自然の関係の自己主張をしたいがために、熊森への批判がピンボケしてないか。安易な自然保護は時として害でしかないが批判の本質なのでは。

Zarathustra1951-1967 自然保護, 環境 後半は全く不要;というかこれを言うなら「自然保護や環境保全は『人間のため』である」と考えない人は、どう考えたら良いか示すべき。人類の為と言って優生論持ち出す人には「それ位なら滅んだ方がまし」と私は言う

はてなブックマーク - はてなブックマーク - 野生のクマをなんとか助けたいとお考えの皆さんへ - 紺色のひと

ketudan そもそもa「団栗撒くな」とb「自然保護は人為上等」は関係ない気が。b飲ませなくてもaの説得は出来るしb認めずとも団栗撒ける(「人間が壊した分の埋め合わせだから団栗撒きは自然干渉ノーカン」て言うでしょ)。

「紺色のひと」では野生のクマが人間の里に降りてきて射殺するのが可哀想だから、森にクマのエサであるどんぐりを撒いてクマが人里に降りないようにするという、「日本熊森協会」というところの活動を紹介して、しかしそれをこう非難する(余談だが、相手がリンク先の文章を変える恐れがあるかといって、魚拓のURL「だけ」をリンクするというのは、ちょっと嫌な感じを受ける。魚拓も併記するというのなら分かるのだけれど、魚拓だけ載せるって言うことは、相手に「適切な」訂正をする権利さえ奪うっていうことなわけで)。

【ドングリ運びの問題点について】

ドングリ運びの目的について、熊森では

豊かな森を再生させるまでの間、山の実りの凶作年に都会のどんぐりを拾い、山間地の地元の方々と協力して食糧が無くて人里に出てこざるをえないクマをはじめとする山の動物たちに届け、人間のところに出てこないようにすることです

日本熊森協会 知らせたい事 > どんぐり運びについて(ウェブ魚拓)

としています。

これに対して僕が感じた問題点を一言で言い現すとすれば、

クマに餌を与えたら、問題は解決するのか?

という点です。

いくつか考えてみましょう。

  1. 野生動物は、厳しい自然の中で孤独に、しかし強く生きています。クマに餌を運んで“あげる”活動は、自立して生きている命を上から見下ろした、駆除や殺処分と同様の傲慢な行為だとは思いませんか?
  2. 飢えたクマに餌を与えることで、餌を食べたクマはその冬を生き延びるかもしれません。冬眠の季節を終え、春になるとメスのクマは子供を産み、個体数は増えることでしょう。では、その翌年はどうでしょうか? このやり方を続ける限り、個体数は増え続け、クマは人間の与える餌に依存していることになります。果たしてそれは、自然な状態と言えるでしょうか?
  3. 飢えたクマに餌を与えることで、クマは無事冬を越せるかもしれません。でも、お腹をすかせているのはきっとクマだけではないはずです。クマやドングリを餌とする動物だけに餌を与えて、森にすむ他の様々な動物たちを無視するのは、自然保護として不公平ではないでしょうか?
  4. 「(ドングリ運びがたとえ)焼け石に水でも、1日1頭のクマを救うために」活動を続けているそうですが、人間が餌をくれることを覚えたクマが「もっと餌をくれ!」と人里に下りてきてしまったら、活動は逆効果になる可能性はないでしょうか?

熊森のこの活動は、「ドングリを『運ぶ』」「食料を『届ける』」「クマを『助ける』」という言葉で言い換えているものの、野生動物に対する『餌付け』に他なりません。『自然とは人間が手をつけていないもの』『人間が自分の都合のいいように自然を保護したり管理したりしようとすることは、自然保護ではなく自然に敵対する行為』という考え方を持つ団体が、一方で自然に生きる動物たちに餌付けをしているのは明らかに矛盾で、ダブルスタンダードです。

日本熊森協会 知らせたい事 > 熊森見解(ウェブ魚拓)

僕の立場からの疑問

えーと、ちょっとここでまず僕の立場からの疑問を言っておきます。

  • 挙げられている「問題は解決しない理由」の内、「どんぐりやり活動をすれば熊が人里に降りてこなくなる」という因果関係による問題の解決を否定しているのは、4番目の「人間が餌をくれることを覚えたクマが「もっと餌をくれ!」と人里に下りてきてしまったら、活動は逆効果になる可能性はないでしょうか?」だけじゃないの?

という点です。だって、別にそれが傲慢だろうが不自然だろうが不公平だろうが、別に「傲慢」も「不自然」も「不公平」な行為だろうが、問題は解決することはあり得るわけです。例えば「熊が人里に降りてこない様に日本の熊を全部収容する動物園を作る」というやり方だって、その3つには見事にあてはまるわけですから。

しかしそして更に言えば、おそらく4番目の根拠となっているのは、文中で後述されている以下のサイトの記述

楽山舎通信−熊に柿を与えるのは「まちがい」では

だと思われるのですが、しかしこれはあくまで柿の実が「餌付け」にあたるのではないかという主張なわけです。どーなんでしょう?僕は熊のことなんか全然詳しくないんでよく分からないんですが、そりゃあ柿が何もないところに柿の実が置いてあったらそりゃ人間がくれたんだっていうことが分かりそうですが、落ちてるどんぐりが多かったとして、それが「人間がエサをくれたんだ」って分かるもんですかねぇ?まぁ、ここら辺は「ちゃんと知りたいんならきちんとググれカス」ということなのかもしれませんが。

ただ、ここまで言った僕の疑問っていうのは、あくまで「熊が人里に現われて人を襲い、その熊を殺さなきゃならなくなるような事態」だけを問題ととらえている立場からの疑問です。

つまり僕の立場って言うのは、そもそも「熊が可哀想」とか「自然を破壊しては良くない」とか、そういうのはどーでもいいんですね。ただ、ニュースで何度も獣害のニュースが伝えられ、獣害そのものによって人や農作物が被害を受けるというコストもさることながら、その度に猟友会が出動し大騒ぎを繰り広げることによるコスト、そして更に言えば、僕は猟銃規制強化論者なので、熊みたいな凶暴な野生動物が出現することによって猟銃を個人が所持することが正当化されることを苦々しく思っているところもあり、そんな中で「ドングリを撒けば人里に熊が降りてこなくなる」という話を聞いて、それだったら猟銃も使わず、対処療法的に殺処分を行うより少ないコストで、獣害の発生を抑えることが出来るんじゃないのかと、そういう立場から熊森の活動を「良いんじゃない」と思った人間な訳です。別にそういう活動を行う団体がどういう思想を持っているかは関係ありません。それこそ「黒い猫だろうが白い猫だろうがネズミを捕るのが良い猫だ」という感じです。そういう立場からすると、今回の記事は「ドングリ捲き」という行動そのものに対する批判としては、正直説得力がありませんでした。

「クマがかわいそう」立場からの疑問

ただ、そもそもこの記事はそういう僕みたいな立場の人間のために書かれたものではないのかもしれません。実際、この記事の著者はセルフブックマークコメントでこんなことを言っています。

はてなブックマーク - 野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さんへ - 紺色のひと

Asay 環境, 生物 熊森のドングリ運びの問題点と、野生生物保全に対する僕の考え方を書きました。生態学には馴染みがないけれど、かわいそうなクマに何かしてあげられないかな、と思っている方を読み手と想定しています

別にクマが可哀想とか思ってませんからね僕は。熊に襲われて人が死んだというニュースを聞くたびに、野生のクマなんて全部絶滅させちまえばいいのになーという感じな都会っこですから。

ただ、もし「クマがかわいそう」と思う立場に立ったとしても、この記事はちょっと疑問なわけです。

  1. 野生動物は、厳しい自然の中で孤独に、しかし強く生きています。クマに餌を運んで“あげる”活動は、自立して生きている命を上から見下ろした、駆除や殺処分と同様の傲慢な行為だとは思いませんか?
  2. 飢えたクマに餌を与えることで、餌を食べたクマはその冬を生き延びるかもしれません。冬眠の季節を終え、春になるとメスのクマは子供を産み、個体数は増えることでしょう。では、その翌年はどうでしょうか? このやり方を続ける限り、個体数は増え続け、クマは人間の与える餌に依存していることになります。果たしてそれは、自然な状態と言えるでしょうか?
  3. 飢えたクマに餌を与えることで、クマは無事冬を越せるかもしれません。でも、お腹をすかせているのはきっとクマだけではないはずです。クマやドングリを餌とする動物だけに餌を与えて、森にすむ他の様々な動物たちを無視するのは、自然保護として不公平ではないでしょうか?

まぁ繰り返しになりますが、傲慢だろうが不公平だろうが不自然だろうが、別に「かわいそうという感情は謙虚で自然で公平な立場に基づいてなきゃならない」という決まりはありませんから、厳密には「かわいそう派」に対する説得にはならないわけです。

しかも問題なのはここで「謙虚」「自然」「公平」という言葉が極めてマジックワード的に使われていることです。まぁ、そもそもこれらの単語は本来マジックワード的な言葉なんだから仕方ないですが、しかしそれにしたって恣意的すぎ、そしてそれ故に、あまりに脆い論理構成に見えます。例えば「クマに餌を運んで“あげる”活動は、自立して生きている命を上から見下ろした、駆除や殺処分と同様の傲慢な行為」という言葉だって、ちょっと考えれば即座に、「人間だってお腹が空いて死にそうな人を見れば食べ物を恵みたくなるが、それは普通『傲慢』とは言わないだろう」と反例が思いつくわけです。

「価値観」の話は結局平行線―それよりも「手段」の問題こそが重要

ここで、そもそも一体どういう意味がこれらのマジックワードに込められているか。考えてみる必要があります。そこで鍵となるのは記事の後半の文章になるわけですが……なんだかなぁ……

【「自然に生かされている」という自然保護観について】

熊森では、団体の基本的な考え方として、

《自然とは》

(前略)刻一刻と変遷し続けていくもの。それが自然です。自然とは人間が手をつけていないものです。この自然の大きな流れの中で、生かされているのが私たち人間なのです。

《自然を守るとは》

(前略)人間による自然の利用を必要最低限にとどめ、それ以外の部分は手付かずで残す、それが私たちの祖先が実践してきた最良かつ唯一の方法です。一度バランスが崩れた自然を元に戻すには、自然の力に任せるしかありません。人間が自分の都合のいいように自然を保護したり管理したりしようとすることは、自然保護ではなく自然に敵対する行為です。

日本熊森協会 知らせたい事 > 熊森見解(ウェブ魚拓) より引用

と掲げています。

ところで僕は、「自然保護や環境保全は『人間のため』である」と割り切って考えるようにしています。これは引用した熊森の考え方と大きく異なるものであり、そして非常に傲慢な考え方です。僕の考えを以下にまとめます。

「自然との共生」「地球との共存」などという言葉があちこちで聞かれるようになりました。僕は、共生や共存という言葉は、傲慢でおこがましいものであると強く感じています。クマが他の生物――ドングリや、ヒグマならサケなどを――食べて生きてゆかなければならないのと同様に、人間だって他の生物なしでは生きてゆけません。だからこそ、他の生物の中で生きてゆかなければいけないからこそ、駆除や射殺などの残酷で傲慢な手段も含めて、必死で関係性を構築しようと努力せざるを得ないのです。

人間は知識と道具を持ち、地球に生きる生物「ヒト」という種として、他の種よりも明らかに繁栄しています。だから傲慢になってもよい、というのではありません。自らの力が強大であることを自覚した上で、頭数管理や生息環境保全など、他の種に干渉して、どちらも生き延びるための手段を取らなければならないのではないでしょうか。

環境省の「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律」、通称「種の保存法」の第1条にはこんな文面があります。

この法律は、野生動植物が、生態系の重要な構成要素であるだけでなく、自然環境の重要な一部として人類の豊かな生活に欠かすことのできないものであることにかんがみ、絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存を図ることにより良好な自然環境を保全し、もって現在及び将来の国民の健康で文化的な生活の確保に寄与することを目的とする。

絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律 第一章 総則

自然保護は人間サマのため、と読めますよね。上等だ、と僕は言いたいのです。アリが生きるためにアブラムシの世話をするように、ヒトは、他の生物種がいなければ生きてゆけないからこそ、自分たちが環境に与える影響を少なく、なるべく自分たちが生きやすいように、エゴイスティックに恐る恐る生きているのだと僕は考えています。

「自然のためには人間がいなくなればいい」と考えたことのある方は少なくないでしょう。でも、自然や地球のために自分たちの種を絶滅させることは、ひとつの命としてあってはならないことです。自然の力がどんなに強く大きくても、自然に人間が生かされているのではありません。自然の中で、僕たちは生き延びているのです。

なんつーか、ま、とても素敵な文章だとは思いますよ。こういう文章ってよく評論コンクールや弁論コンクールとかで優秀賞取るんですよねー。僕も昔よく図書券もらいました。まぁ、コツさえ覚えればほとんど自動書記できますから。

と、茶化すのはこれぐらいにして……

まぁ、僕もこういうことを議論することそのものは好きです。ですから、この文章に対して僕が思うことについても最後に書くつもりです。ただ一方で、こういう議論って、要するに「私はそうは思わない」の一言で、否定しようと思えば否定できてしまうんですよ。何故なら、これはあくまで「価値観」の話ですから。私が何に価値をおくかの話であって、そんなもの究極的には個々の人間が内心で決めることですから、そこで幾ら「私は自然保護とはこういう理由から行うべきだと思うのです」という話をしても、きつい言い方をするならば、「お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ん中ではな」という話でしかありません。

もちろんそういう議論をすることを否定はしません。しかし、「野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さんへ」という記事のタイトルで集まる「皆さん」が求めているのは、そういう決着が絶対つかないような「価値観」の問題ではないと思うんですよ。そうでなく、彼らは既に「クマが銃で撃たれていることはかわいそう」という価値観を持っていることを前提で、そしてそのクマを(彼らの価値観で言うところの)かわいそうな状態から助け出す「方法」を探しているわけです。それに対して熊森は明確に「どんぐりを撒く」という方法を示したわけです。とするならば、それを批判したいなら、その「方法」の妥当性・合理性こそを批判しなければならないわけです。具体的に言うならば、「○○という理由により、ドングリを撒いても熊は人里に降りてくる」と述べたり、「ドングリを撒いてクマが人里に降りてこなくても、クマは結局死に、『かわいそうな状態』になってしまう」と述べたりすべきであり、そして出来るならば、「ドングリを撒く」ではない、彼らの価値観を満足させる対案を出すべきなのです。筆者は

クマの問題に関わらず、様々な環境問題は、要因が複雑で原因と結果がはっきりしないことが多く、なかなか理解することが難しいものです。「お腹を空かせた森のクマさんにご飯を届ける」という活動は実にわかりやすいものです。そして、そのわかりやすさは、「本当にこれでいいのか?」と考える機会を失わせる危険を内包しています。けれど、複雑な系に「これさえやれば問題なし!」なんて一発解決の妙手は存在しません。

と述べています。しかし一発解決が無理なら、それこそ二発だろうが三発だろうがかまいません。一つの手段ではダメというならいくつの手段を併用する方策を考えればいい。そういう「方法」から逃げて、それこそこの記事の大半のように単なる「価値観論争」しか出来ないのが生態学の知見とやらならば、はっきりと言いましょう、そんなものは科学ではあり得ない!と。

じゃあどう書けば良いのか

まず一番良いのは、問題の焦点を「手段」に限定することです。そして、「熊がかわいそうな状況(具体的に言うならば、熊が人間の手によって殺される状況)を改善する手段として『ドングリ撒き』は適切ではない」ということを、それこそデータや観察などの研究に基づいて言えばいい。

ただ、あくまで価値観の問題を突き詰めたい、「熊が人間の手によって殺されている状況」を改善するためなら何をしても良いという価値観を何とかしたいと考えるなら、途方もない価値観論争をしても良いでしょう。途方もないとは言いますが、それによって相手の価値観を変えることも可能かもしれません。また「熊を助けるためなら何したって良いとは思わない価値観」が多数派になったならば、そこで立法なり司法なりを動かして、法的にだったり行政的にだったりといった方法で「ドングリ撒き」を禁止できるかもしれません。ただ、そのような価値観闘争を推し進めるならば、それは「野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さん」との全面闘争になることを覚悟しなければならないでしょうし、またすべきでしょう。つまり、「クマを助けるためなら何をしたって良いと思っている奴らは私たちの敵だ!」と、明確に述べるべきです。

ところがこの記事はそのどちらでもない。どっちつかずと言っても良いかもしれませんが、最初いかにも価値観を共有しているような顔をして近づいてきながら、じゃあといって読み進めてみると、そこに書いてあるのは「お前の価値観そのものが間違っているんだ」という文章。たとえて言うならば、資料の整理法やプログラムの書き方というような実践的な方法を知りたくて開いた仕事術のページが、読んでみると実際は「自分が上手くいくと信じれば全て上手くいく!」というような自己啓発だったり、あるいは「この世界は全て大いなる存在によって操られているのです」というような宗教だったりしたような、そんながっかり感が、この文章にはあるような気がしてなりません。

最後に、ちょっとだけ価値観の話

といっても、繰り返しになりますが、まぁ個人的にはそういう話は嫌いではありません。ので、最後にちょっと、蛇足ではありますが、価値観の話にも首を突っ込んでみましょうか。興味がある人はどうぞお読みください。なかったら読まなくて良いです。あくまで蛇足なので。

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