色々反原発デモなどに参加するのならきちんと書いておかなきゃならないなと思ったので、twitterとかでつぶやいていたことなんですけど改めて記事に。
僕の原子力発電に対しての現時点での考えはこうです。
- 原子力発電所は段階的に、数年の単位で停止・廃炉していくべき
- 今すぐ全ての原発を停止するのはさすがに無理だろうが、とりあえず浜岡原発は即時停止。他の原発も危険性が高い旧型原発はできるだけ早い優先順位で廃炉していくべき
- 原発廃止によってまかなえなくなる電力需要については、節電や自然エネルギー活用、既存の水火力発電の活用などの、複合的対策によって対処すべき
- それぞれの対策のどれをどのように採用するかは、費用対効果や環境への配慮などの検討の上で、国民の議論に基づいて決定されるべき
このような意見を持つに当たって、考慮すべき重要なことは次の二つだと思います。
- なぜ原発を廃止すべきなのか
- 原発がなくなることによる電力不足はどうするのか
この二点です。
なぜ原発を廃止すべきなのか
まず言えるのは、「原発は危険だから」ということです。
しかし、ただ危険というのならば、原発の他にも火力・水力発電所、その他自然エネルギーなどについても一定の危険があります。そのなかで原発の危険だけを特別視するのは、すなわち原発の危険が特別なものであることにほかなりません。
ですが、一体原発の危険性の何が特別なのか。原発肯定派はこれまで原発の危険性は過小評価されていると声を大にしていってきました。例えば一般市民は原発のような技術を大きなリスクとして捉えているのに対し、科学者はそんなに深刻なリスクと捉えていないというようなことはこれまでも言われてきましたし、そして福島第一原発で事故が起きた今になっても、下記の記事のように原発が他の発電方法と比べて安全であることを訴える人がいます。
まず「原発は危険だ」という点について検証してみよう。前に紹介したWHOの統計によれば、石炭火力の死者が161人/TWhに対して、原発は0.04人/TWh。OECDの調査によれば、図のようにチェルノブイリを含めても0.048人/GW年で、石炭火力の1/128である。チェルノブイリの死者は直接の事故死だけを数えているので、この100倍とすると石炭火力といい勝負だが、OECD諸国ではゼロである。
(略)
福島第一のように数兆円の損害賠償が発生するとコストは跳ね上がるが、これも確率で割り引いて保険でカバーすれば大したことはない。原子力損害賠償法を改正すればよい。
まあ、これまで大多数の専門家によって「ほぼ0%」とされてきた確率の事故が実際に福島第一原発で起きてしまったのに、今後原発が事故を起こす確率について、信頼できる確率と、さらに損害賠償すべきコストをどのように算出して「大したことない」とか言ってんだよという素朴な疑問はありますが、とりあえずそれはおいておきます。
このような原発安全論の根底にある考え方は次のような考えです。
「それぞれの技術・道具の危険性は、それが被害をもたらす確率×被害の大きさで算出されるべき」
そして、原発は、確かに事故を起こせばとてつもなく甚大な被害をもたらすが、しかしそれが起きる可能性はごく小さい。故に上記のような計算式に当てはめれば、その危険性は決して特別に大きいものではなく、むしろ他の代替策と比べて小さいものだと、そういう論理です。
これに対して、一つできる批判としては、「計算式はそれで正しいかもしれないが、しかしそれに当てはめるべき値が間違っていたのではないか」という批判です。実際、原発が運用開始されてから50年も立たないうちにこのような大事故が起こったということは、原発事故の可能性はあきらかに「ほぼゼロに等しい」なんてものではなく、普通に考えれば同じように「50年に一度」、とてつもなく甘めに見積もっても(チェルノブイリとかスリーマイルもあったんだから本来は「50年に一度」でも甘いんだが)「数百年に一度」なわけで、「ほぼゼロ」ではなく、有意に存在する。そして、その被害は、様々な人々の尽力があったにも関わらず、まだ算定は出来ていないものの、とにかく大きな被害を生み出している。ということは、もし何らかの理由で人々が対処できない、またはその対処が裏目にでるようなことがあったら、更に大きな被害がもたらされるわけです。ですから、普通に上の計算式に照らし合わせても、原発は「割りに合わない」のかもしれません(そこのところは、今後様々な人の研究を待たなければならないでしょう)。
ただ、ここで僕は別の角度から原発安全論を疑わしく思っています。それは「原発の危険性は、そもそも危険の質が違うため、『被害をもたらす確率×被害の大きさ』というような数量化した評価では算出できないのではないか」ということです。では、具体的にどのような質が違うか。それは大きく分けて三点あり、
- 受益圏と受苦圏がかけ離れている
- 被害が極端に見えにくい
- 被害が壊滅的で例外的な被害である
です。
- 受益と受苦がかけ離れている
この「受益圏」と「受苦圏」のかけ離れには、二つのかけ離れがあります。一つは距離的なかけ離れ。そしてもう一つは時間的なかけ離れです。
まず「距離的なかけ離れ」については、これはもう既に様々な人が様々なところで言ってきたことではあります。要するに、福島第一原発の電気は殆どが首都圏によって使われてきた。だが被害を受けているのは東北地方の人々、これは明らかに不公平ではないかということです。そしてじっさいそれは正しい。
それを認めた上で更に言うと、原発事故は確率は低いですが、しかしそうであるが故に、原発事故は、その事故を経験し、被害を受けた世代と、そうではない世代の人の間に大きな被害の差を生みます。具体的に言うならば、原発が稼動し始めた頃にはすでに誕生しており、そして福島第一原発の事故が起きる前に死んだ人は、原発事故の恐怖や被害は受けずに、その利益だけを得たわけですが、しかし私たち福島第一原発の事故を経験した世代、特に今胎児であったり子供であったりする人々は、それにより多くの被害・不安を受けなければならないわけです。
あくまで社会の全体での便益を考える「被害をもたらす確率×被害の大きさ」においては、これらの受益権と受苦権の分離は考慮されません。しかしこのような点は、タバコ・アルコールや自動車、またX線検査などの危険とは全く異質の危険である(それらは、被害をうける人と利益を受ける人々がほぼ重なっている)ことを明らかにします。
これに対して、「補償によって受益者も被害を負担すればいい」と考える人がいるかも知れません。先に引用した文でも、「確率で割り引いて保険でカバー」という表現がありました。しかしここで重要なのは、補償とは決して万能ではなく、起きてはならないことが起きたときに、その被害を少しでも「軽く」するために行われるものであるということです。そもそも、別にかっこいいことを言いたいのではなく、ただ事実としてこれは言うのですが、「人の命とお金を比較することはできない」のです。だって双方とも性質が全く異なるのですから(それぞれの主体が同じ場合、つまり命を捨てる人とそれによって利益を得る人が全く同じな、タバコ・アルコールなどのケースにおいては比較はできるかもしれないが)。ただ、それでももし命が失われるようなことがあったら、失われた側と失った側双方が納得するために異なる二つを無理やり比較する基準が使われるというだけで、基本原則は「いくら経済利益が得られようが、人々の生存権は侵害されるべきではない」です。
- 被害が極端に見えにくい
「被害が極端に見えにくい」という問題もまた、原発の危険性に特殊に存在する問題です。例えばもし火力発電所が爆発したり、水力発電所のダムが決壊したり、あるいは風力発電所の風車が倒壊したりすれば、それは大きな被害をもたらすでしょう。しかし、そこにおいては、被害を受けた人、そしてその程度は明確なはずです。
ところが原発事故の場合、直接に被害をもたらすのは見えない「放射線」ですし、放射線を出す「放射能物質」も、極めて検出が難しいものです。そして、更に、放射線によってどのような健康被害がもたらされるのか、もし何か健康が損なわれている場合でも、それが放射線によるものなのかそうでないのかという診断も、極めて困難であること。これらのことは、実際どの程度の値で放射線が危険となるのか、どこが危険なのかということが大きな問題となっている現在では誰もが知っていることでしょう。
そしてそうであるが故に、放射線による不安は、実際に生じる被害よりもかなり大きなものになります。もちろん「放射線を受けた人からは放射線が放出されるから危険だ」なんていう明らかなデマによる不安は否定できますし、否定されるべきなのですが、例えば自分が何か癌であったり白血病になった、あるいはそこまでいかなくても何か体がだるかったりするとして、それが原発事故によるものなのか、別の要因によるものなのかは、現在の医学では、推測をすることはできますが、完璧な特定はできません。このように不明瞭な点があれば、かならず不安は増大します。そしてその不安もまた、見えにくいものではあるけど、しかし確実に害をなすものなのです。
このように原発事故による被害は、その直接の見えにくさ、さらにそれが発生する不安の見えにくさという点で、被害の算出が難しいし、仮に算出したとしてもかなり怪しいものとならざるをえないのです。
- 被害が壊滅的で例外的な被害である
そして最後に、「被害の見えにくさ」とも関係があることですが、原発事故の被害は、それがもたらされる社会にとって壊滅的で、例外的な被害をもたらします。そして、「壊滅的で例外的な被害」は、「通常の被害」とは、そもそも質的に異なったものなのです。一体どういうことなのか。
例えば自動車事故によって年間数千人から数万人の人がこの日本で死んでいます。しかし社会は別にそれだけの人が死んでも機能不全に陥ったりせず、日々の営みを続けます。なぜなら、私たちの社会は既に交通事故程度の被害は織り込み済みだからです。タバコやアルコールに関しても同じことです。タバコやアルコールで大量な人々が健康を害し、死んでいきますが、しかしそれはむしろ社会の営みの一部として、処理されていきます。
しかし原発事故はどうか?今回の原発事故は、唐突に発生し、そして極めて広範囲に、しかも「見えにくい形」で被害をもたらし、そして現在ももたらし続けています。そのためこれまでの社会の営みは、原発周辺ではまさに停止されましたし、例えば野菜・牛乳・魚介類に放射能検査がなされ、基準値を超えたら出荷停止にされたり、水道水から放射能が検出され乳児へ与えないよう勧告がなされたり、また児童の屋外活動に制限がもたらされたりと、原発周辺じゃなくても、日本社会全体で明らかにこれまでの日常の変更が余儀なくされるわけです。実際の放射能物質による被害も去ることながら、「流出した放射能物質」というリスクが唐突に出現したことにより、それを考慮した上で全ての社会生活が組み直されなければならなくなったのです。そしてそれが一体どのような損失をもたらすかは、巨大かつ曖昧すぎ、算出できないでしょう。
「被害をもたらす確率×被害の大きさ」という式は、あくまで被害をもたらされる社会システムが、その被害にあった後でも存続する場合は、確かに有効でしょう。しかし被害によって社会システムそのものが破壊される、または大きく変容、それも望ましくない変容を突然迫られる場合は、例え確率が小さいとしても、他の被害よりは優先的に避けられるべきだと、僕は考えます。
以上の三つの理由から、僕は原発に対しては「被害をもたらす確率×被害の大きさ」という式に基づいて危険性が低いとされても、そもそも原発事故の被害はこのような式を適用してはいけない、特別な被害をもたらすものだと考え、原発の危険性は特別なんとかしなければならないものだと考えるわけです。
原発がなくなることによる電力不足はどうするのか
しかし、幾ら原発が特別危険なものだとしても、それがなければ社会そのものが存続できないとしたら、やはり私たちは原発を廃止することはできないでしょう。私たちの日常は電気によって支えられているわけだから、その点で原発廃止に不安を持つのは当然のことです。
しかし、まず重要なのは、「日本では一部の時期を除き電力は余っている」ということです。例えば地震直後に電力が足りなくなり計画停電がおきましたが、しかしあれらは原発が運転停止したからというよりは、他の火力発電所などが停止したことによる電力供給の減少によるものが大きいわけです。通常時ならば、原発が全機停止したとしても、電気が足りなくなるのは夏場の、お昼の数時間だけです(よくわかる原子力 - 原発なくても大丈夫 節電は原発をなくす参照。ただ具体的にどれぐらいの間電気が足りなくなるかは議論があり、夏場に原発がなくても電力は全然足りるという人もいれば(左記のページはどちらかというとそういう考え)、いやそうではなくやはり夏場かなりの期間電気が足りなくなるという人もいる。ただいずれにしても、原発が停止すれば一年中ずっと電気が足りなくて停電となるなんて言う意見の人はいないと見ていい)。
しかしここで原発肯定派がよく引き合いにだすのが、「真夏にエアコンを使えなくすれば、熱中症により死者が出るだろう」という話です。例えば和田秀樹氏は「暑さで亡くなる高齢者は、数千、数万単位に上るだろう。放射能の害より電力不足で死ぬ人のほうが多くなるのは確実だ。」と述べ(【震災】高齢者の大量死を看過するか、東京に原発を建設するか)、森永卓郎氏は「早急に津波対策に取り組み、新潟中越沖地震の影響でまだ3基が停止している柏崎刈羽や、今回被災した女川、さらには福島第二を再起動する準備を進めるべきである。そうしなければ、日本経済の失速だけでなく、夏場に大規模停電が起きてエアコンが止まり、熱中症で亡くなる高齢者が続出する事態も起きかねない。」と述べている(NEWSポストセブン|反発覚悟で森永卓郎氏提案「日本は原発のスイッチを入れよ」)
なるほど確かに何も対策を打たないまま夏場になって無計画に停電を行えばそのような事態を招くかもしれません(ただその場合でも、本当にそれだけの死者が出るのか。確かにヨーロッパとかでは熱波でそれぐらいの死者が出ますが、しかし「ヨーロッパの夏」と「エアコンのない日本の夏」が同じなのか。比較するならエアコンが普及していなかった頃と普及した頃で熱中症による死者を比較すべきですが、そのような比較は見られません)。しかしこの想定、あまりに人々を馬鹿にしているのではないでしょうか?
まず、これまでも確かに節電は叫ばれてきましたが、しかし「節電しなければ死者が出る」というほどのメッセージではありませんでした。もし、節電しなければ死者が出るというのなら、当然より一層の節電努力がなされるでしょう。それにより経済はダメージを受けるかもしれませんが、しかし「経済」と「人命」を天秤にかけて全車を選ぶほどこの社会や国が愚かだと、原発肯定派は本気で考えているのでしょうか?(だとしたら、社会がではなく、あなたたちが愚かなんでしょう)。
あるいは、例えば自宅でエアコンを使う代わりに、暑いときはみんなで公民館などの集会所に集まって、そこでエアコンを掛けて涼み、電力消費を抑えるという方法も取れるかもしれません。このような方法は、松本哉氏が提案しています。
空前の超巨大デモ近し!! 4月10日「高円寺・原発やめろデモ!!!!!」目前!‐松本哉‐マガジン9
あ、あと、節電の話。
いま、これまで原発頼みだったその原発が止まってることもあり、当然のように電力不足だ。で、節電が広く呼び掛けられている。それは当然大事なことだが、これが自粛ムードと相まってなんだかよくわからないことになっている。各種のイベントが中止になり(花見まで!)、電気は薄暗くなり、みんな早く家に帰って、一人でしんみりテレビ見てたりする。
ちがうちがう! 節電も大事だが、いま大事なのは大勢の人がワラワラと集まること! 今の世の中は個々人がバラバラになっていくような街づくりや社会づくりになってて、全くヒドイことになっている。銭湯も映画館も減り、公園や駅前広場では人も集いにくい環境になってきてる。共有というかシェアするっていうものが減ってくるにつれて、大量電気浪費社会がやってきてる。これじゃしょうがない。分断された状態から、むやみに集まれるように変えていかなきゃいけない。たとえば、それぞれが家に帰って、ひっそりとテレビを見ているよりも、仮にエアコンをギンギンに効かせて、電気もつけまくり、音楽もガンガンに鳴らしてたとしても、大量の人が一か所にやたら集まって大騒ぎしてたら、実はそっちのほうがエコだったりする。花見なんて究極のエコだし。
節電は大事。巨大企業の大量消費電力の節電ももっと大事。でも、そんな付け焼刃な小細工よりも、生活スタイルを変えてかなきゃどうしようもない。人が集まれる場所を増やし、ガキんちょも大の大人も街で遊べるような状況にしなきゃいけないし、やんなくていいようなムダな仕事もなくしていかなきゃいけない。こいうのが、脱原発につながると思う。そう、実は、街をむやみにウロついたり、飲み歩いたり、昼寝をしたり、いろんなパーティーに人が集まったりっていう、世の中的に「ムダ」とされているものが、史上最強のエコであり、脱原発の実践者だったりするのだ!!!
僕はこの意見に同感します。
いずれにせよ、原発肯定派の議論で謎なのは、彼らは人々を、電力不足に対して何も工夫できない子供であるかのように思うのに、そうでありながら原発事故が起きたときは、人々はそれに対して即応し被害を最小限に抑えられると信じている点です。
普通に考えるならば、突然やってきて制御不能な大きな被害を一方的にもたらす原発事故に対処するほうが、こちら側がコントロールした上で、徐々に節電をしていったり、代替エネルギーを確保したりすることより明らかに難しいはずなのです。なのに原発肯定派は、後者は難しいと言いながら、代わりに前者に備えろ、前者はそんなに大したことないと主張します。
もちろん僕は、原発を止めることが容易いとは思いません。ですから「全ての原発を即時停止せよ!」というような意見にはさすがに賛同できません。ですが、一方でなんとかすべき時期が夏場の一時期に過ぎないこと。これまで原子力推進開発に当てられてきた予算を代替エネルギー開発研究に当てられること、そして節電や代替エネルギー、そして既存の水火力の活用など様々な複合的方法によってこの問題には対処できることを考えれば、決して困難なことであるとも思えません。むしろ、現在の、そして今後起こりうる原発事故への対処の方がはるかに難しいことなのではないでしょうか。
そして、そのために重要なのが、脱原発の意思を、国民の大多数が持ち、そのための負担を受け入れる覚悟を持つことだと考えています。ではそのためにどうすればいいか、それについては次の記事で語ろうと思います。