前回の記事では自分が原子力発電についてどう思うかについて、基本的に脱原発の立場であることを表明し、そう考えるに至った論理について説明しました。
そして、脱原発の為には人々が「脱原発をする。そのためには負担を受け入れる」という意思をきちんと持つことが重要だと考えています。では、そのためにどうするか?
僕が重要だと考えているのは
- 原発が重要な問題であるという「問題意識」を形成すること
そしてその上で
- 個々人が、個々人の立場から「原子力発電」についてどう思うか意見を述べること
です。もちろんそこにおいて、僕は脱原発という意見を述べるわけですが、しかしそれはあくまで「僕はそう思う」ものであって、そう思わない人はそう思わない理由をきちんと述べられることが重要でしょう。
この記事では、なぜそれらのことが重要なのかを説明した上で、そのようなことを実現するためには何が必要か、考えていきたいと思います。
説得より、まずは議論の俎上に載せる
さて、なぜ「原発が重要な問題であるという『問題意識』を形成すること」が重要なのか。
原発についての議論は今インターネットでもマスメディアでも盛んに行われている……様に、一見は見えます。例えば「原発」でタグ検索すればたくさんの記事やまとめが引っかかりますし(はてブ、togetter)、テレビニュースや新聞記事でも原発の問題は連日取り上げられ、討論番組に置いても主要な争点の一つとして定着しています。
そのような状況を見ていると、もう誰もが原発について真剣な問題意識を持っていると錯覚しがちになり、ついつい、「では人々をどのように脱原発に導くか」というようなことを考えがちになります。が、それは大きな間違いで、やはり殆どの人にとって、原発は未だ雲の上の、自分とかかわりのない難しい問題なんです。
そりゃあ、「放射能の恐怖」とかなら誰もが結構真面目に考えているでしょう(ただ僕自身は、子どもたちの健康被害とかは心配ですが、自分への健康被害はあんまり心配していません)。自分が直接問題と接することですから。ですが、いざそれが「原子力発電の是非」という問題になると、様々な問題が複合的に絡むが故に(ほどいてしまえば前の記事のように単純な問題なんですが)、自分とは縁遠い問題に感じ、問題意識を持てなくなるのです。「放射能は怖いしやめてほしいけど、原発はよく分からないからなんとも言えない」。これが大多数の国民の意見でしょう。
だから、まずは「原発賛成/原発反対」という二項対立のどちらかを支持することを強いるよりも、「原発について考えたほうが良い」という問題意識の形成から始めるべきなのです。それをしないで少数の人々の中で賛成/反対の熱い議論を交わしても、それが実際の政策に影響を与えるとは思いません。
しかし重要なのは、「日常の中の一部の問題と捉えられる」こと
ただし、だからといって「原発は今人々が考えなきゃならないもっとも重要な問題である」という風に押し付けるのもよくないでしょう。人々は生きている中でそれぞれ固有の問題を抱えています。ある人は津波の被害を受けているかもしれないし、ある人はお金がなくて困っているかもしれない。また別の人は恋に悩んだり、あるいは友人関係に悩んだりしているかもしれない。
そんな人々に、「今かかえている問題は後回しにして、原発の問題に全てを捧げろ。」と言ったって、殆どの人は付いてきません。それでもごく少数の人はついてくるかもしれませんが、逆に言えばその人達は日常の問題をおろそかにしているということですから、すぐ磨耗し燃え尽きてしまいます。
原発は確かに問題とすべきものでしょう。しかしそれは、その他の日常の問題にまぎれた一つの問題にすぎないのも、また事実なのです。そのことを認識した上で、日々日常の問題に悩んでいる人が、その間にふと、「そういえば、原発ってどうするんだろうなぁ」と一日三十分ぐらい考える。それぐらいが、まず運動の目標として考えられるべきです。
「議論の場」を作る
そしてそうやって原発について考える問題意識が高まってくれば、人々はそれぞれ自分なりに情報を収集し、そしてその中から原発についての意見を形成するでしよう。
ただそこで重要なのは、必ずしも最初のそれが、「原発反対」の意見である必要はないということです。どうも反原発の流れを想像しようとすると、人々が原発について問題意識を持って調べることによって、一気に反原発の意見になり、そして国民全体がそういう意見をもつようになって、反原発が実現される、という道筋を描きがちですが、実際そんなことはありえないわけです。だって原発支持派のほうが圧倒的にお金も、権力もあるんですから、子どもの教育に首突っ込んで「原発は安全だと教えろ」と言うこともできますし、様々なメディアで「原発は安全です」という広告を打つこともできる。そんな中で情報を得ていけば、最初は「原発は安全だろう」という意見になるのは、これは仕方のないことなわけです。
そんな中で、ただいたずらに「原発は危険だという意見だけを表明しろ!『原発は安全だ』という意見を表明するやつは敵だ!」という風に言っても、そういう脅しで「はい、では『原発反対』にくら替えします」なんて言う人はほとんどいません。多くの人はただ「ああやっぱり原発関係の議論って怖い」と思い、「意見は自分の心のなかにしまっておいて、表明するのはやめておこう」となるだけです。
だから、まずは「どんな意見でも良いから、原発について意見をだしていこう」という風な雰囲気を作り出すことが重要なのです。そして、そんな中で原発に反対する人は、原発に賛成する意見に一つ一つ冷静にツッコミを入れていけばいいのです。
ただ、その際も重要なのは、「議論に日常のすべてを割かない」ということです。インターネットは広大で、それこそ起きている時間ずっと議論に参加していられるような、よくも悪くも「暇な人」は大勢いるわけです。別に僕はそういう人が悪いとは思いません。というか逆に、そういう人がいるからこそインターネットは強いとさえ言えます。ですが、そういう人の調子に付き合って「応答されたらこっちも応答しかえさなければいけない」という気持ちでいたら、普通に日常を暮らしている人は疲れ果て、燃え尽きてしまいます。あくまで「原発問題は日常の一部であり、全てではない」のです。議論につきあっているうちになんか気分が悪くなったり、議論が長引いて生活時間が脅かされてしまうなら、そこから抜けだしても全然結構なのです。むしろそうやって自分を守ることにより、持続的に原発問題にかかわれるなら、むしろそっちの方がいいでしょう。大事なのは「自分を甘やかす」ことです。原発問題には楽な気持ちで関われるという雰囲気を作り出すこと、これは、真剣に原発問題に関わっている人にとっては嫌なことかもしれません。が、そうでなきゃ人々は原発問題から離れていきます。だって原発問題に関わるのは、あくまで「日常を暮らす命を守るため」なんですから。その日常がそこなわれるなら、そもそも原発問題に関わる意味なんて無いでしょう?
気楽に、それこそ一日一回つぶやいて、一回他人の意見に反論する、それぐらいのペースで原発問題について議論できる場を作ることが、だから重要なのです。
なぜ「科学者/官僚/専門家」に任せるだけでは駄目なのか
さて、このように「市民が議論をしていくことが重要だ」ということを言うと、必ず次のように反論してくる人がいます。
「頭の悪い市民がいくら議論したってまともな結論が出るはずがない。頭のいい科学者/官僚/専門家に任せろ」
これに対してはまず単純に次のように反論することができます。
「任せた結果が、福島第一原発の事故です。」
しかし僕は、だからといって専門家の人たちの頭が悪かったとは思いません。というか、そりゃあ彼らの頭は僕なんかよりずっと良いでしょう。ですが、そもそも今までの「原発が安全だ」という判断だって、別に「専門家がそう言っていたからそうなった」わけではないのではないか、というのが僕の考えです。
確かに多くの専門家は「原発が安全だ」と言ってきました。ですが、しかし中には「原発は危険だ」と言ってきた専門家もいます。まぁ、結果論から言えば後者の人が正しかったわけですが、しかし前者の人も僕なんかより断然頭はいいわけで、頭が良い人が知恵を絞って考えたのになぜかそういう結論にいたってしまったのでしょう(そこでなぜそういう勘違いをしてしまったかは、これから重要な問題とされるでしょうが、今は問いません)。
しかしここで重要なのは、「何故前者の意見(原発安全)が採用されて後者の意見(原発危険)が採用されなかったか」ということです。両者も科学的方法に基づいて推論を行い、結論を出した。前者を選ばない理由も科学的にはありませんが、後者を選ばない理由も科学的にはありません。そこで前者が採用されたのは、明らかに「科学」ではなく「政治」によるものなのです。
つまり、これまで原発が安全とされてきたのは、原発を安全だと言ってきた科学者が夢想してきたように「原発安全が科学的に正しいため、それが選択された」のではなく、「原発は科学的に安全なのかもしれないけど、それとは関係なく、原発は安全であると『政治的』にされてきた」のです。
ただ、これを即悪いこととして断罪することはできません。「原発が安全である」ということは政治的に決定されてきた、しかし、だからこそ、それは「政治」によって、つまり人々が「原発は危険だから反対」という声を上げ、それを政治の舞台に上げることによって、覆すことができるのです。逆に、もし全ての決定が、それこそ計画社会主義のように「科学的」に決定されていたらどうか。「原発は安全だ」という専門家が全ての意思決定をしていたら、例え事故が起きようが市民が反対しようが、「原発は安全」なことが正しいのだから、原発は存続されるでしょう。そして事故は繰り返される。
もちろん僕は科学や専門家が一切不要なのだと言っているのではありません。既存の原発を廃止するまでの間、どうやって安全性を確保していくか。原発に変わる代替エネルギーをどのように開発していくか。節電計画をどのように立て、どうやって節電の犠牲を最小限にとどめていくか、専門家にやってもらわなければならないことは沢山あります。しかし、それもあくまで専門家が案を出し、それに対して市民が「政治」によって同意していく、という形で実行されていくべきなのです。そこで市民は、複数の「科学的に正しいこと」から、自らの目指す社会にあったものを選び取っていくのです。
「専門家に全て任せれば良い」というのは、一見専門家と、科学全体を賞賛しているように見えるかもしれませんが、しかし実際それは、科学や専門家が決して現実として一枚岩でない以上、「ある一人の専門家と、ある一つの科学的立場のみを信用し、他はすべて間違っていると貶している」にすぎないのです。真に科学と専門家を認めるならば、だからこそ、その限界、つまり「彼らは単一の正しい答えなどは出せない」ということを認めた上で、専門家の領分は専門家に、しかし最終決定する政治の領分は市民にと、きちんと腑分けするべきなのです。
原発問題についての両輪―関心形成と、議論
さて、ここまでの文章で、僕が脱原発の機運を高めるためには何が重要と考えているかについては、理解されたかと思います。では、じゃあ具体的にどのような活動を行っていくべきなのか。
僕は、それは「関心形成」と「議論」という、二つの段階に分けて考えられると思っています。
まず「関心形成」についてですが、これは先程の議論で言えば「原発が重要な問題であるという『問題意識』を形成すること」にあたります。つまり、原発っていうのは自分たちにとって重要な問題なんだと、思ってもらうことです。
そして僕は、デモとか集会とかの示威活動は、この段階で効果を発揮するものだと考えています。
デモについては反原発の立場に立つ人の中にも、否定的な意見が多くあります。例えば河野太郎氏は次のように述べ
「デモをするより議員事務所に行け」 河野太郎流、脱原発運動のススメ | ニコニコニュース
また、今できることとしては、デモや署名運動をするよりも国会議員に直接意見を届けることが重要とし、
「100万人がデモをするより、100万人が事務所に行って『あなたの考えを明確にしてくれ』、『エネルギーシフトを考えないなら、私はあなたを支持しない』と議員か秘書に面と向かって言うほうがはるかに効果があります」
と、国民にアドバイスをした。
デモという行動に否定的です(だけど、そもそも支持している人が完璧に原発反対派で、幾ら他の人が原発反対に鞍替えしようが、支持する気はないときはどーすりゃいいんだろうなぁと思ったりもするんですが、ま、それは余談)。
しかし実際は、そもそも原発反対は国民の多数派ではないのです。例えば朝日新聞の世論調査においては以前原発増設&現状維持派は過半数を超えていますし(参照)、そもそも反対・賛成どちらにしたって、別にそんなに調べて賛成・反対を選んだ人はごくわずかでしょう。だとしたら、もちろん議員事務所に行くことも重要ですが、そういう原発問題にあまり興味がない人たちに「あ、これって結構重要な問題なんだ」と思ってもらうことの方も、重要なはずです。
そしてそのためのツールとして、デモは有効なのではないでしょうか。というか、むしろデモはそのために行われるものでしょう。デモを見たこと、それ自体から得られる情報量は、声による呼びかけと、せいぜいプラカードなわけで、ごく僅かと言っていいです。ですから、それだけで人々を「原発反対派」にすることは、まず無理です。そうでなく、「原発について騒いでいる人がこんなにいるんだから、原発って結構大きな問題なんだなぁ」と思ってもらうこと、デモはその段階に位置する行動なのだと思います。
そしてその次に、今度は「議論」という段階がきます。この段階においては、それこそブログや、twitter、SNSなどのパーソナルなメディアが重要になってきます。なんだかんだ言って、日常で人々と原発問題について意見を交わすというのは、理想的ではありますが、しかし難しいでしょう。ウザい人と思われるかもしれませんし、意見が対立することによって変に関係をこじらせてしまうかもしれない。しかしネットなら、議論したい人と議論して、そして嫌になったら関係を断つこともできる。そんな中で、原発反対の立場の人は、人々を反原発にしていけます。
しかし逆に言うならば、そういう議論の場は、「議論」の段階にいる人には有効ですが、逆にそもそも原発問題を重要と思ってない人は、あまり求心力は持たないわけです。だから「議論」だけでもだめで、デモなどによる「関心形成」と両輪でいくことが、重要なのです。
(本当は、この二つを同時にやれるツールが、twitterとかのソーシャルメディアではないかと思ったりするんですが、それはまた別の話)
最後に
というわけで、最後に原発についてのデモの紹介をします。
まず、もう今日(5月7日)の14時からになってしまうんですが、東京の渋谷でデモがあります。詳しくは↓参照。僕も参加します。
他にも千葉・静岡・名古屋・大阪・神戸・福岡など、今週末は様々なデモがあります。詳しくは下記のサイトなどで調べてください。
また、さっきも言ったように、インターネット上でそれぞれが原発について様々な意見を述べていくことが僕は重要だと考えています。ので、ぜひtwitterなどを活用して、暇の時でいいんで、意見を言っていきましょう。但し、あくまで日々の生活の一部として、無理せずね。