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なんで僕はこの「女の子」にむかつくのか

女の子の欲しいもの - Ohnoblog 2

最初読んだときは「あーこの都合の良いこと考えている女の子はきっと叩かれてるだろうなー、そりゃそうだよなー僕だってムカツクもん。でもそういうネットの大勢とはやっぱ逆を行っておきたいから、『彼女たちをこんな状況に追い込んだ社会構造の方を問題視しなければならない』とか優等生っぽく言っておくかー」とか思っていたんですよ。

ところが実際にはてブを見てみると、実は結構叩かれていなく「そういう女の子もいても良いよねー」的な意見がむしろ大勢を占めている。

はてなブックマーク - 女の子の欲しいもの - Ohnoblog 2

なんかそうなってくると逆に「おいおいちょっと待てよ、でもやっぱりこの女の子ムカツクだろ。それがここまで容認されているって、やっぱりなんかたがが外れてないか?」と思ってしまうから、不思議なものです。

ただ、そこでただ「この女の子ムカツクよ」って言うのも流石にPC的にどーなのかっていう感じもしますので、一旦ムカツク理由を述べた後に、そこから一歩引いて、じゃあ何で僕みたいにムカつく人とブクマの多数みたいに容認する人が出てくるのか考えてみたいと思います。

……一体エチケットペーパーを何枚敷いているんだこの文章は。

ムカツク理由

というわけでまずムカツク理由を考えてみる。

うーん……といっても実はそれほど明確ではないんだよなぁ。大体事例自体が特殊だからそれこそウヨサヨ問題みたいに「こういう政治信条ならこういう主張になる」みたいに割り切れるものでもないし、でもじゃあどうでも良いのかというと、やっぱりなんか論理というより感情でムカツクところがあって、しかもそれが複数絡み合っているから一つに焦点を合わせられないという……

とりあえず思い当たる節を挙げて箇条書きにしてみましょうか。

  • 単純に「シングルマザーは許せない」という気持ち―それはない……と思う。いや深層心理的にはどーだかよく分からないけど、一応表面上はリベラルぶっている僕は、「世の中『標準家族』的じゃない多様な家族があって良い」と思っている。「良いシングルマザー」と「悪いシングルマザー」が居て、この女の子が「悪いシングルマザー」に見える、というのなら分かるけれど、でもじゃあそこで問題となっている「悪い」とは一体何なのか?
  • 子どもから引き離される「女の子」の夫が可哀想―これはあるかもしれない。それこそマチズモ的に「子どもは結局家父長の所有物だぜー」みたいな感覚はやっぱりどこかにあるのだろう。でもじゃあ逆にこれがもし男女逆転して語られたら、やっぱり「その男ムカツク!」と思うだろうとかも考えたり。
    • 「二人の共有物で有るべきなのに、一人が独占している」と中性的に考えたらありなのかも。
    • 同様の理由で男なんかいらないのだ。という発言を男性として嫌悪したという解釈も、ありそうだけど一方で「女なんかいらないのだ」でも通用することを考えると、疑わしくもある
      • ただこれも、そういう性差別的なことは置いておいて抽象化し、「付き合う異性の他人を手段として扱う奴が許せない」と解釈すれば、それはまさしく当てはまるのかもしれない。ただそれってちょっと綺麗すぎて嘘くさいよね。というかむしろ「他人なんて手段としてどんどん使ってたくましく生きろ」というのが僕の普段の主張な気もするし。
  • 労働も結婚もいや。でも子供はほしいという発言にずるさを感じる―これもあるだろう。要するに「欲しいものが欲しいならそれ相応の努力をしなければならないはずなのに、それをしていない」ということへのムカつき。
    • でも一方で、自分は衣食住の心配をすることなく子育てに専念できるという表現をよく読めば、「子育てという労働」をしている点で、相応まの努力はしているはずなんだよな。それを見落としてしまうのは、やっぱりまだ女性の家事労働を「労働」と認められない考え方が根付いているせいなのか……
      • あるいは「辛くてやりたくないけどやらなきゃならないことが『労働』なんだから、子育ては本人がそれを望んだ以上『労働』とは言えない」という考え方から、子育てを労働と捉えられないのかもしれない。これは自分の心に問いかけてみても確かにそうな気がする。
  • 高校3年や大学4年で妊娠することへの嫌悪感―これは、言っちゃうとPC的にとてもよろしくないだろうけど、ぶっちゃけある。何きちんと勉強しなきゃいけない時にそんなに無責任にガキなんか作ってんだよと。まぁ歪んだ教養主義ですなぁ。あーやだやだ。
  • 子どもか可哀想という気持ち―まぁ今時「片親の子どもはまともに育たない」なんて考えはさすがにない。ただその一方で、やっぱり「こんな楽して子どもだけゲットだぜみたいな甘っちょろいこと考えている女の子は、実際に子育てに直面したらその大変さに児童虐待とかするんじゃねーの」とも思ってしまう。

とまあ、こんな感じだろうか。このなかでもやっぱり大きいのは「楽して欲しいもの=子どもだけ得ようとすることへの嫌悪感」、そして「子どもを『自分だけの楽しみ』として独占しようとする」だろう。ただこの文章の場合、それだけでなくそこにそれこそ普段抑圧されているバックラッシュ的マチズモが「こりゃいいや」と瓶時用してくるものだから、結果としてそのマチズモにより嫌悪感がより一層増すと同時に、その嫌悪感が結局ただの性差別でしかないように見えてしまい、なんか触れづらくなってしまっていると、そういう感じなんじゃないだろうか。

いやまぁ、所詮セルフモニタリングでしかないんで、もし怖い人に「いや結局お前は口では偉そうなことを言っているが古い男尊女卑に凝り固まった人間だったっていうことなのだ。真にリベラルな人間ならこのような事例はむしろ賞賛するはずだ」と言われれば「あーそーっすねぇ、反省しまーす」としか言いようがないわけだけれど。

ムカつかない理由

で、こうやって自分のムカツク理由になんとなく結論を出してみると、今度気になってくるのが「じゃあ何でみんなはこんな罠だらけの文章にムカつかず、それを容認できるの?」ということだ。

ブコメを見ていると目に付くのは「それによって子どもがどんどん生まれて出生率が伸びればいいじゃん」という意見であり、そして「社会に今あるものを使ってやりくりしようとしており、国とかに迷惑を掛けているわけではないのだから別にいいじゃん」という意見だ。

multi12 そんなんでも出生率が上がるだけマシかも

oldriver 事の真偽はさておき、彼女達の「産み育てるために利用できるリソースは何でも使う」姿勢は、社会にとって有用。「個人の自立」と「子育て」と「社会支援」の関係がそもそもいびつなのだから、真面目にやる必要はない

KoshianX 戦略としては確かに有利かあ……。男には取れない作戦だなあ……

nekosichi 男女, 社会, 人生 個人的にはこの流れに賛成。男性側の最適な振る舞いは、のらりくらりと結婚をかわし、次の女性へ行くことだろう。問題は、結婚なしに子供を産んだ女性との長期的な繋がりを維持しつづけるシステムを持たないことか

rgfx society, survive 過剰な流動性に晒される昨今ならではの身の処し方の一つ。フットワークは軽いほうがいい、倫理とか人権とかいろいろ捨てたほうがいい、そんな感じの例。

tikani_nemuru_M ガキが欲しいのなら説得力のある戦略だと思った。ところでブコメが興味深い。なんでこの戦略に♂が否定的なんだろ? 種馬ができてラッキーとなぜ思わないんだ?/後腐れなしでガキだけ欲しい♀は僕に連絡ください。

TERRAZI 人生, 価値観, 結婚 あー、これいいねぇ。パラサイトシングルマザーか。子供が成人したらまた結婚して子供産めば人生2回楽しめる。超オススメ。

MCE 家制度のいいとこだけ採用した、みたいな話に聞こえます。いや、全然悪く無いと思いますよ?

xzglrete 生活, 人生, 社会 男ながらに、ごく普通の選択肢だと思う。その選択肢には功罪あるかもしれんが。寿退社も時期がたかだか数年ほど違うだけで同じようなものでは?

Bosheit 税金にたからない点であまったれシングルマザーよりリッパ。

なるほど確かにこういう考え方に立てば僕が抱いたようなムカつきは生まれてこないのだろうなと思う。つまり日本国の中での「子ども」の数が増えることこそが重要ならば、それが女の子によって独占されようが何の問題もないし、またその女の子の両親が養育費の面倒を見てくれるならば、むしろ子育て支援に掛けるべき税金も掛ける必要が無くて万々歳と。必要なのは「公平性」ではなく、とにかく国家支出を「安く」することだとするなら、別にそこで民間の中で負担の多少差があっても問題ないわけですから。ちょうど新自由主義の減税論と一緒です。楽して沢山お金を稼いだ人の税金を減税すれば、その人はもっと楽して沢山お金を稼ごうとするだろうから、結果として税収増に繋がるというのと同じ論理で、このような「女の子」はむしろ「望ましい生き方」とされるわけです。

しかも、そういう主張っていうのは普段は多くの人にとって「そうかもしれないけど『正しい』とは言えないよね」ということで、あくまで「本音トーク」的にしか語れないわけですが、今回の場合は「女の子」の味方をするという、それこそ一見フェミニスト的な、正義の御旗的な建前元で語れるわけで、その結果として多くの人はこの女の子をむしろ賞賛するようになったわけです。

ただまぁこれも、僕の勝手な分析ですから、むしろフェミニズム的にはこのような生存戦略こそを男性社会は認めるべき何であって、それを認められないお前は結局男性社会を擁護しているだけなんだと言われたら、ぐうの音も出ません。

私たちの望むものは

ただなー……「ぐうの音も出ない」と言っておいてアレですけど、やっぱりなんか違和感を持つというか、ぶっちゃけムカツクし、「おかしいだろそれ!」と言いたくなるんですよねえ、この「女の子」の生き方には。

やっぱりなんど読んでも気に入らないのが「労働も結婚もいや。でも子供はほしい。」という言い草。いや、こういう人間がなんか最近男女問わず多くなっていることは分かるんですよ。女性が「男いらないから子ども欲しー」なんて言うのはホント耳にたこができるぐらい聞くし、男の方だって結局『よつばと!』とやらが人気なのは結局あのよつばを育ててる男になりたいだけでしょ?と、あるいは『らき☆すた』のそうじろうとかに結局おまいらはなりたいんでしょ?と。

でもねー、そうやって「子ども」「子ども」言っている連中の頭の中にある子どもイメージって、結局どこまでいってもマンガちっくというか、キャラクター的なものでしかない気が、してならないんですよ。あくまで「物語」に沿って動き、その通りに育つような。まるでプリンセスメーカーのように、お姫様に育てようとしたらそのようになり、娼婦に育てようとしたらそのようになる。

でも実際の「子ども」っていうのはそんなキャラクターではなく実際の人間な訳で、そんな物語のように育つわけがない。よく子育ての大変さとかが言われると「でもそんな大変さもいつかは報われるんですから」とか言う奴がいるけど、子育ての大変さは、結局それが報われないところにあるわけで、幾らきちんと“正解通り”に子育てしようが、子どもは引きこもりニートになって老後まで寄生してくるかもしれないし、あるいはしょーもないことで自殺したり、あるいはとんでもないシリアスキラーになるかもしれないわけです。だって子どもは所詮「他人」なんですから。だからといって一方で製造責任はきちんと親にあるんですから「子どもがどーなろうがしったこっちゃない」とすることはできない。自分では結局どーにもすることができない存在、にも関わらず、それに対して自分が全責任を負わなければならない存在。それが子どもでしょう。

「相手はいらないから子どもは欲しい」と言う人がいますけど、でもそれこそ「相手」とすら付き合えないのに「子ども」と付き合うなんてことがそもそも出来るのか?「相手」と一生付き合えると思って付き合った結果「子ども」が生まれた。でも生まれてからは「相手」と付き合えないことが分かったので「相手」と分かれて、やっぱり「子ども」と付き合った、とかならまだ分かるんですよ(それでも「もうちょっと見極めるべきじゃないの?」と疑問は抱きますが)、でも最初から「相手」と付き合えないことが分かるんなら、そんな「相手」と付き合うべきではないんであって、付き合える「相手」が見つかるまで待ち、もしそしそういう「相手」が現われないんだったら、そもそも自分に「子ども」なんて向いていないと思うべきなんですよ。

と、こう書くと「女の人にとって子どもがどれだけ大事か分かってない」とか「そうやって子どもを生むハードルをどんどん上げるから少子化が」というような批判が来るかもしれません。ですが、前者の批判については、「だったら重要なのは『子どもを生まなきゃ女じゃない』という性別役割分業的な考え方を壊すことであって、その考え方にそのまま乗っ取っていたらいつまでたっても性別役割分業は解消しないでしょうが。鎖につながれた奴隷に『この鎖をもっと重くて格好良いのにしてくれ』とか言われた時にその鎖を重くする主人は奴隷のことを考えているか?むしろ最も奴隷の敵だろう」と答えたいし、後者の批判に対しては「じゃあどんどん少子化が進んでいけばいい。なぜなら少子化が起きていることこそが正しい状態なんだから。そしてその結果日本や人類が滅亡しようが、不幸な子どもを増やすよりはよっぽど良い」と答えたいです。

……熱くなってつい話が逸れました。まぁ実際は殆どの普通の人にとっては子どもは「ふつーに欲しい」ものなのでしょうし、いくら僕がそこで熱くなって何を言おうが、ただのノイズにしかならないのでしょう。

しかしそれにしてもやっぱりこの記事がとくに引っかかりもなくスルーされてしまうというのは納得がいかないんですね。いや確かに「楽して子どもを持つための手段を自由に選択せよ」という状況の中では、この女の子は最も合理的選択をしているんでしょう。可能な限り規制を取っ払った自由な社会の中で合理的な選択をする個人。まさしく新自由主義的な人間というか、古典派経済学に描かれる経済人そのものであり、であるからして現代社会に最も適合している人間な訳で、しかしねぇ……

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(いやでも、「女の子」からしたら「ざまーみろ」なのかなぁ。むしろ今まで散々女性を抑圧しておいて、今更平等なんてむしろ甘いと、同じルールの下で、今度は男と子どもが酷い目に遭う番なんだということなのか……)

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ブンガクへ逃げるな

だから、もっと人殺しの顔をしろ - ○内○外日記プラス+

まあ昔から気付いていたことだけれど、僕の嫌いなものっていうのは世間一般ではとても人気が出るそうで、この文章も例に漏れず多くの人の共感を集めています。

はてなブックマーク - だから、もっと人殺しの顔をしろ - ○内○外日記プラス+

何だろうねぇ……ま、感想を一言で言ってしまえば気持ち悪い以外の何の感想も浮かんでこないんですが、しかしそれでは単なるディスコミュニケーションになってしまうので、何で気持ち悪いか他人に分かるように解説しますか。

まずそもそもこの文章、不必要なよく分からんブンガク的(笑)表現が使われていて大変読みにくいです。そこから僕なんかは、はてブで賛同している連中は本当にこれきちんと読んでいるのか?と疑問に思うわけですが、まぁはてなの人たちはきっと文学にも大層親しんでいらっしゃるんでしょうからこれしきの文章屁でもないんでしょう。

 

皮肉はこれぐらいにしましょう。これだけ長い文章ですが、内容を端的にまとめて箇条書きにすれば

  • 松山で障害者施設に反対する人たちは別に差別意識なんか持って無く本当に「資産価値が下がること」のみを恐れている
  • そして経済が没落していく日本においては誰もがこのような不安を抱え、人々が富を奪い合う不幸な競争社会が実現する
  • しかしよく考えればもともとそのような競争社会は発展途上国では状態であったのであり、発展途上国と先進国の格差などがいけないと思うならそういう競争社会を受け入れ、その中で生存できるような心構え(それをこの著者は「人殺しの顔」と言っているわけだ)を身につけよ
  • そして国はそのような競争社会で落伍した人に、とりあえず生物的生存は保障するようなセーフティーネットを構築せよ。逆に言えば、人々はそれ以上のものを望んではいけないし、国もそれ以上のものを与えてはいけない

と、これだけの、まー極めて単純なテンプレ的新自由主義発想でしかありません。ですから、この内容を批判するのも正直テンプレ的な新自由主義批判で十分なわけです。それこそ

  • 「松山の人たちに差別意識はない」というが、じゃあ全ての資産価値が下がるような行為に彼らは同じように反対するだろうか?彼らは確かに明確な理由としては「資産価値の低下」を挙げているが、そのようなことが理由として正当だと認められると思う要因には、やはり「障害者ならそういう理由で追い出しても当然なはずだ」という差別意識があったのではないか?
  • 別にみんなが平等に貧しくなっていくわけではなく、一部のものがどんどん更に豊かになってきても居るわけだから、そういう富の再分配をきちんとすればみんながある程度豊かに暮らせる社会は実現する(あなたがリフレ派ならこれに「インフレターゲットによる成長戦略」とか入れても良いですよ?)
  • 「発展途上国の人たちががまんしているんだからお前らも我慢しろ」というのはまさに「犠牲の累進性」であって、突き詰めていけばそれはみんなが不幸になる社会にしかならない
  • 人の必要というのはただ「食っていく」ことができればそれで良いのでなく、極めて多様なものであり、それを保障するためにはやはり個別的なきちんとした福祉が必要だ

などなど反論できます。ただ新自由主義のひとたちもこれで収まってしまうほど馬鹿なわけではないわけで、当然これに対する再反論がなされ……

 

でも、この文章がやりたいのはきっとそういうことじゃないでしょう。いや、もしこの記事の著者が本当に上記で述べたような新自由主義的考え方を信じ、そこからこのような主張をしているとしたら、そしてだから上の新自由主義批判に対しても反論したいというなら、そりゃまぁきちんと敬意を持って「対話」をしていきたいと思います。でも、賭けても良いけど、きっとこの記事の著者はそんな反論はしてこない。

だってそこまできちんと考えているならもうちょっときちんと、相手に伝えようとする形で文章が書けるはずです。もう回りくどいのではっきり僕の考えを言っちゃいましょう。要するにあんた、「この世はもうお終いだー」という不安を主張し、そしてそれに同意する人たちと不安を確かめたいだけでしょ?そしてあなたが望んだとおり、はてブ欄にはそんな人間がわらわらと群がり、あんたは「あーわたしだけじゃなかったんだ」と、当然得られることが分かっていた確認をきちんと得ているわけだ。極めて予定調和な展開。いつからこんな生温い文章が「極論」なんて言い方で呼ばれるように、日本語の使い方は変わったんでしょう?

そしてそういう文章だからこそこの文章はブンガク的に、感覚を生の「感覚」のまま伝える文章になっているわけです。なぜなら、先に箇条書きにしたように、きちんと感覚を言語にしてしまえば、それは異なる考え方・感じ方を持っている人との「議論」や「対話」に繋がってしまうからです。きちんと安全に自分の考えの正しいことを確認するためには、ああいう文章にするしかなかった。そしてそれは成功した。いやーめでたいめでたい。

……はぁ。

 

まぁ「日本が滅亡する」なんていうのは右曲りの詐欺師の常套句であるわけですが、しかしその予言が実現した試しなんか殆ど無い。あれだけ「この戦争に負けたら日本は終わる」と叫ばれてきたアメリカとの戦争でだって、結局この国は(良くも悪くも)耐えたわけだし。

そして更に言えば国が無くなったって別に国に生存維持装置を握られている訳じゃないんだから死にゃあしない。そりゃ、多少は不便になったりするかもしれないけど、別にお金が無くたって楽しいことは一杯ある(有ったら更に増えるけど)。どっかの図書館に行くか、ブックオフで立ち読みでもしているか、海でも行って水遊びでもするか。もしみんながみんなお金が無くなったらそもそもモノを買うのにお金なんていらなくなる世界が来るのかもしれませんね。そうすりゃ別に一切の生産活動が止まったって既にあるモノがなくなるわけじゃないんだから、誰も見ないけどとりあえず値段が付いているようなアニメのDVDでももらいあさりますかね。そんでもってそれを元に同人誌なんか作ったりしてそれを無料で配布して……

まぁ、確かに荒唐無稽な話ですよ。でも「この世が終わりだー」なんて話もそれと同じぐらい荒唐無稽な話でしかないんですから。

しかし、こういうような楽観論を唱えても、取り上げている記事の著者のような「この世は終わりだー」教の人は聞く耳を持たないわけです。なぜなら、聞いてしまったら自分の信念が曲げられてしまうから。あるいはこういう風に言ってスルーするかもしれませんね。「君は若いからそんな風に思えるんだ。若くない者にはそのように思えないんだよ。人間の考え方っていうのはそんな急に変わらないんだから」と。

でも、人間の考え方が不変のものだとしたら、じゃあなんで人は赤ちゃんの時と違う考え方をしているのか?それは、赤ちゃんの頃から若い時はきちんと周りの人々と対話をし、そしてそこで他人と考え方をぶつけ合うことを恐れなかったからですよ。ブンガクなんて全く分からない代わりにね。

だとしたら、若くなくなったとしてもそれをすれば良いんです。ブンガク風に顔を飾り付けて、「これが人殺しの顔だぜへへ」とか格好にもなっていない格好付けはやめにして、なんで自分は「自分たちは人殺しであることから逃れられない」と思ったのか。みんなが幸せになる方法を探すことは無理だとなぜ思ったのか、きちんと「他人」に向けた言葉で伝え、対話をすべきなんです。

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別に熊を助けたいとか特に思わないが

なんかはてブで挙がっていた記事に妙な違和感を覚えたのでメモをしておく。

野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さんへ - 紺色のひと

まぁ大体もう既にブックマークコメントで言われていることなんだけれど。

はてなブックマーク - 野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さんへ - 紺色のひと

nemoba 人と自然の関係の自己主張をしたいがために、熊森への批判がピンボケしてないか。安易な自然保護は時として害でしかないが批判の本質なのでは。

Zarathustra1951-1967 自然保護, 環境 後半は全く不要;というかこれを言うなら「自然保護や環境保全は『人間のため』である」と考えない人は、どう考えたら良いか示すべき。人類の為と言って優生論持ち出す人には「それ位なら滅んだ方がまし」と私は言う

はてなブックマーク - はてなブックマーク - 野生のクマをなんとか助けたいとお考えの皆さんへ - 紺色のひと

ketudan そもそもa「団栗撒くな」とb「自然保護は人為上等」は関係ない気が。b飲ませなくてもaの説得は出来るしb認めずとも団栗撒ける(「人間が壊した分の埋め合わせだから団栗撒きは自然干渉ノーカン」て言うでしょ)。

「紺色のひと」では野生のクマが人間の里に降りてきて射殺するのが可哀想だから、森にクマのエサであるどんぐりを撒いてクマが人里に降りないようにするという、「日本熊森協会」というところの活動を紹介して、しかしそれをこう非難する(余談だが、相手がリンク先の文章を変える恐れがあるかといって、魚拓のURL「だけ」をリンクするというのは、ちょっと嫌な感じを受ける。魚拓も併記するというのなら分かるのだけれど、魚拓だけ載せるって言うことは、相手に「適切な」訂正をする権利さえ奪うっていうことなわけで)。

【ドングリ運びの問題点について】

ドングリ運びの目的について、熊森では

豊かな森を再生させるまでの間、山の実りの凶作年に都会のどんぐりを拾い、山間地の地元の方々と協力して食糧が無くて人里に出てこざるをえないクマをはじめとする山の動物たちに届け、人間のところに出てこないようにすることです

日本熊森協会 知らせたい事 > どんぐり運びについて(ウェブ魚拓)

としています。

これに対して僕が感じた問題点を一言で言い現すとすれば、

クマに餌を与えたら、問題は解決するのか?

という点です。

いくつか考えてみましょう。

  1. 野生動物は、厳しい自然の中で孤独に、しかし強く生きています。クマに餌を運んで“あげる”活動は、自立して生きている命を上から見下ろした、駆除や殺処分と同様の傲慢な行為だとは思いませんか?
  2. 飢えたクマに餌を与えることで、餌を食べたクマはその冬を生き延びるかもしれません。冬眠の季節を終え、春になるとメスのクマは子供を産み、個体数は増えることでしょう。では、その翌年はどうでしょうか? このやり方を続ける限り、個体数は増え続け、クマは人間の与える餌に依存していることになります。果たしてそれは、自然な状態と言えるでしょうか?
  3. 飢えたクマに餌を与えることで、クマは無事冬を越せるかもしれません。でも、お腹をすかせているのはきっとクマだけではないはずです。クマやドングリを餌とする動物だけに餌を与えて、森にすむ他の様々な動物たちを無視するのは、自然保護として不公平ではないでしょうか?
  4. 「(ドングリ運びがたとえ)焼け石に水でも、1日1頭のクマを救うために」活動を続けているそうですが、人間が餌をくれることを覚えたクマが「もっと餌をくれ!」と人里に下りてきてしまったら、活動は逆効果になる可能性はないでしょうか?

熊森のこの活動は、「ドングリを『運ぶ』」「食料を『届ける』」「クマを『助ける』」という言葉で言い換えているものの、野生動物に対する『餌付け』に他なりません。『自然とは人間が手をつけていないもの』『人間が自分の都合のいいように自然を保護したり管理したりしようとすることは、自然保護ではなく自然に敵対する行為』という考え方を持つ団体が、一方で自然に生きる動物たちに餌付けをしているのは明らかに矛盾で、ダブルスタンダードです。

日本熊森協会 知らせたい事 > 熊森見解(ウェブ魚拓)

僕の立場からの疑問

えーと、ちょっとここでまず僕の立場からの疑問を言っておきます。

  • 挙げられている「問題は解決しない理由」の内、「どんぐりやり活動をすれば熊が人里に降りてこなくなる」という因果関係による問題の解決を否定しているのは、4番目の「人間が餌をくれることを覚えたクマが「もっと餌をくれ!」と人里に下りてきてしまったら、活動は逆効果になる可能性はないでしょうか?」だけじゃないの?

という点です。だって、別にそれが傲慢だろうが不自然だろうが不公平だろうが、別に「傲慢」も「不自然」も「不公平」な行為だろうが、問題は解決することはあり得るわけです。例えば「熊が人里に降りてこない様に日本の熊を全部収容する動物園を作る」というやり方だって、その3つには見事にあてはまるわけですから。

しかしそして更に言えば、おそらく4番目の根拠となっているのは、文中で後述されている以下のサイトの記述

楽山舎通信−熊に柿を与えるのは「まちがい」では

だと思われるのですが、しかしこれはあくまで柿の実が「餌付け」にあたるのではないかという主張なわけです。どーなんでしょう?僕は熊のことなんか全然詳しくないんでよく分からないんですが、そりゃあ柿が何もないところに柿の実が置いてあったらそりゃ人間がくれたんだっていうことが分かりそうですが、落ちてるどんぐりが多かったとして、それが「人間がエサをくれたんだ」って分かるもんですかねぇ?まぁ、ここら辺は「ちゃんと知りたいんならきちんとググれカス」ということなのかもしれませんが。

ただ、ここまで言った僕の疑問っていうのは、あくまで「熊が人里に現われて人を襲い、その熊を殺さなきゃならなくなるような事態」だけを問題ととらえている立場からの疑問です。

つまり僕の立場って言うのは、そもそも「熊が可哀想」とか「自然を破壊しては良くない」とか、そういうのはどーでもいいんですね。ただ、ニュースで何度も獣害のニュースが伝えられ、獣害そのものによって人や農作物が被害を受けるというコストもさることながら、その度に猟友会が出動し大騒ぎを繰り広げることによるコスト、そして更に言えば、僕は猟銃規制強化論者なので、熊みたいな凶暴な野生動物が出現することによって猟銃を個人が所持することが正当化されることを苦々しく思っているところもあり、そんな中で「ドングリを撒けば人里に熊が降りてこなくなる」という話を聞いて、それだったら猟銃も使わず、対処療法的に殺処分を行うより少ないコストで、獣害の発生を抑えることが出来るんじゃないのかと、そういう立場から熊森の活動を「良いんじゃない」と思った人間な訳です。別にそういう活動を行う団体がどういう思想を持っているかは関係ありません。それこそ「黒い猫だろうが白い猫だろうがネズミを捕るのが良い猫だ」という感じです。そういう立場からすると、今回の記事は「ドングリ捲き」という行動そのものに対する批判としては、正直説得力がありませんでした。

「クマがかわいそう」立場からの疑問

ただ、そもそもこの記事はそういう僕みたいな立場の人間のために書かれたものではないのかもしれません。実際、この記事の著者はセルフブックマークコメントでこんなことを言っています。

はてなブックマーク - 野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さんへ - 紺色のひと

Asay 環境, 生物 熊森のドングリ運びの問題点と、野生生物保全に対する僕の考え方を書きました。生態学には馴染みがないけれど、かわいそうなクマに何かしてあげられないかな、と思っている方を読み手と想定しています

別にクマが可哀想とか思ってませんからね僕は。熊に襲われて人が死んだというニュースを聞くたびに、野生のクマなんて全部絶滅させちまえばいいのになーという感じな都会っこですから。

ただ、もし「クマがかわいそう」と思う立場に立ったとしても、この記事はちょっと疑問なわけです。

  1. 野生動物は、厳しい自然の中で孤独に、しかし強く生きています。クマに餌を運んで“あげる”活動は、自立して生きている命を上から見下ろした、駆除や殺処分と同様の傲慢な行為だとは思いませんか?
  2. 飢えたクマに餌を与えることで、餌を食べたクマはその冬を生き延びるかもしれません。冬眠の季節を終え、春になるとメスのクマは子供を産み、個体数は増えることでしょう。では、その翌年はどうでしょうか? このやり方を続ける限り、個体数は増え続け、クマは人間の与える餌に依存していることになります。果たしてそれは、自然な状態と言えるでしょうか?
  3. 飢えたクマに餌を与えることで、クマは無事冬を越せるかもしれません。でも、お腹をすかせているのはきっとクマだけではないはずです。クマやドングリを餌とする動物だけに餌を与えて、森にすむ他の様々な動物たちを無視するのは、自然保護として不公平ではないでしょうか?

まぁ繰り返しになりますが、傲慢だろうが不公平だろうが不自然だろうが、別に「かわいそうという感情は謙虚で自然で公平な立場に基づいてなきゃならない」という決まりはありませんから、厳密には「かわいそう派」に対する説得にはならないわけです。

しかも問題なのはここで「謙虚」「自然」「公平」という言葉が極めてマジックワード的に使われていることです。まぁ、そもそもこれらの単語は本来マジックワード的な言葉なんだから仕方ないですが、しかしそれにしたって恣意的すぎ、そしてそれ故に、あまりに脆い論理構成に見えます。例えば「クマに餌を運んで“あげる”活動は、自立して生きている命を上から見下ろした、駆除や殺処分と同様の傲慢な行為」という言葉だって、ちょっと考えれば即座に、「人間だってお腹が空いて死にそうな人を見れば食べ物を恵みたくなるが、それは普通『傲慢』とは言わないだろう」と反例が思いつくわけです。

「価値観」の話は結局平行線―それよりも「手段」の問題こそが重要

ここで、そもそも一体どういう意味がこれらのマジックワードに込められているか。考えてみる必要があります。そこで鍵となるのは記事の後半の文章になるわけですが……なんだかなぁ……

【「自然に生かされている」という自然保護観について】

熊森では、団体の基本的な考え方として、

《自然とは》

(前略)刻一刻と変遷し続けていくもの。それが自然です。自然とは人間が手をつけていないものです。この自然の大きな流れの中で、生かされているのが私たち人間なのです。

《自然を守るとは》

(前略)人間による自然の利用を必要最低限にとどめ、それ以外の部分は手付かずで残す、それが私たちの祖先が実践してきた最良かつ唯一の方法です。一度バランスが崩れた自然を元に戻すには、自然の力に任せるしかありません。人間が自分の都合のいいように自然を保護したり管理したりしようとすることは、自然保護ではなく自然に敵対する行為です。

日本熊森協会 知らせたい事 > 熊森見解(ウェブ魚拓) より引用

と掲げています。

ところで僕は、「自然保護や環境保全は『人間のため』である」と割り切って考えるようにしています。これは引用した熊森の考え方と大きく異なるものであり、そして非常に傲慢な考え方です。僕の考えを以下にまとめます。

「自然との共生」「地球との共存」などという言葉があちこちで聞かれるようになりました。僕は、共生や共存という言葉は、傲慢でおこがましいものであると強く感じています。クマが他の生物――ドングリや、ヒグマならサケなどを――食べて生きてゆかなければならないのと同様に、人間だって他の生物なしでは生きてゆけません。だからこそ、他の生物の中で生きてゆかなければいけないからこそ、駆除や射殺などの残酷で傲慢な手段も含めて、必死で関係性を構築しようと努力せざるを得ないのです。

人間は知識と道具を持ち、地球に生きる生物「ヒト」という種として、他の種よりも明らかに繁栄しています。だから傲慢になってもよい、というのではありません。自らの力が強大であることを自覚した上で、頭数管理や生息環境保全など、他の種に干渉して、どちらも生き延びるための手段を取らなければならないのではないでしょうか。

環境省の「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律」、通称「種の保存法」の第1条にはこんな文面があります。

この法律は、野生動植物が、生態系の重要な構成要素であるだけでなく、自然環境の重要な一部として人類の豊かな生活に欠かすことのできないものであることにかんがみ、絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存を図ることにより良好な自然環境を保全し、もって現在及び将来の国民の健康で文化的な生活の確保に寄与することを目的とする。

絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律 第一章 総則

自然保護は人間サマのため、と読めますよね。上等だ、と僕は言いたいのです。アリが生きるためにアブラムシの世話をするように、ヒトは、他の生物種がいなければ生きてゆけないからこそ、自分たちが環境に与える影響を少なく、なるべく自分たちが生きやすいように、エゴイスティックに恐る恐る生きているのだと僕は考えています。

「自然のためには人間がいなくなればいい」と考えたことのある方は少なくないでしょう。でも、自然や地球のために自分たちの種を絶滅させることは、ひとつの命としてあってはならないことです。自然の力がどんなに強く大きくても、自然に人間が生かされているのではありません。自然の中で、僕たちは生き延びているのです。

なんつーか、ま、とても素敵な文章だとは思いますよ。こういう文章ってよく評論コンクールや弁論コンクールとかで優秀賞取るんですよねー。僕も昔よく図書券もらいました。まぁ、コツさえ覚えればほとんど自動書記できますから。

と、茶化すのはこれぐらいにして……

まぁ、僕もこういうことを議論することそのものは好きです。ですから、この文章に対して僕が思うことについても最後に書くつもりです。ただ一方で、こういう議論って、要するに「私はそうは思わない」の一言で、否定しようと思えば否定できてしまうんですよ。何故なら、これはあくまで「価値観」の話ですから。私が何に価値をおくかの話であって、そんなもの究極的には個々の人間が内心で決めることですから、そこで幾ら「私は自然保護とはこういう理由から行うべきだと思うのです」という話をしても、きつい言い方をするならば、「お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ん中ではな」という話でしかありません。

もちろんそういう議論をすることを否定はしません。しかし、「野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さんへ」という記事のタイトルで集まる「皆さん」が求めているのは、そういう決着が絶対つかないような「価値観」の問題ではないと思うんですよ。そうでなく、彼らは既に「クマが銃で撃たれていることはかわいそう」という価値観を持っていることを前提で、そしてそのクマを(彼らの価値観で言うところの)かわいそうな状態から助け出す「方法」を探しているわけです。それに対して熊森は明確に「どんぐりを撒く」という方法を示したわけです。とするならば、それを批判したいなら、その「方法」の妥当性・合理性こそを批判しなければならないわけです。具体的に言うならば、「○○という理由により、ドングリを撒いても熊は人里に降りてくる」と述べたり、「ドングリを撒いてクマが人里に降りてこなくても、クマは結局死に、『かわいそうな状態』になってしまう」と述べたりすべきであり、そして出来るならば、「ドングリを撒く」ではない、彼らの価値観を満足させる対案を出すべきなのです。筆者は

クマの問題に関わらず、様々な環境問題は、要因が複雑で原因と結果がはっきりしないことが多く、なかなか理解することが難しいものです。「お腹を空かせた森のクマさんにご飯を届ける」という活動は実にわかりやすいものです。そして、そのわかりやすさは、「本当にこれでいいのか?」と考える機会を失わせる危険を内包しています。けれど、複雑な系に「これさえやれば問題なし!」なんて一発解決の妙手は存在しません。

と述べています。しかし一発解決が無理なら、それこそ二発だろうが三発だろうがかまいません。一つの手段ではダメというならいくつの手段を併用する方策を考えればいい。そういう「方法」から逃げて、それこそこの記事の大半のように単なる「価値観論争」しか出来ないのが生態学の知見とやらならば、はっきりと言いましょう、そんなものは科学ではあり得ない!と。

じゃあどう書けば良いのか

まず一番良いのは、問題の焦点を「手段」に限定することです。そして、「熊がかわいそうな状況(具体的に言うならば、熊が人間の手によって殺される状況)を改善する手段として『ドングリ撒き』は適切ではない」ということを、それこそデータや観察などの研究に基づいて言えばいい。

ただ、あくまで価値観の問題を突き詰めたい、「熊が人間の手によって殺されている状況」を改善するためなら何をしても良いという価値観を何とかしたいと考えるなら、途方もない価値観論争をしても良いでしょう。途方もないとは言いますが、それによって相手の価値観を変えることも可能かもしれません。また「熊を助けるためなら何したって良いとは思わない価値観」が多数派になったならば、そこで立法なり司法なりを動かして、法的にだったり行政的にだったりといった方法で「ドングリ撒き」を禁止できるかもしれません。ただ、そのような価値観闘争を推し進めるならば、それは「野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さん」との全面闘争になることを覚悟しなければならないでしょうし、またすべきでしょう。つまり、「クマを助けるためなら何をしたって良いと思っている奴らは私たちの敵だ!」と、明確に述べるべきです。

ところがこの記事はそのどちらでもない。どっちつかずと言っても良いかもしれませんが、最初いかにも価値観を共有しているような顔をして近づいてきながら、じゃあといって読み進めてみると、そこに書いてあるのは「お前の価値観そのものが間違っているんだ」という文章。たとえて言うならば、資料の整理法やプログラムの書き方というような実践的な方法を知りたくて開いた仕事術のページが、読んでみると実際は「自分が上手くいくと信じれば全て上手くいく!」というような自己啓発だったり、あるいは「この世界は全て大いなる存在によって操られているのです」というような宗教だったりしたような、そんながっかり感が、この文章にはあるような気がしてなりません。

最後に、ちょっとだけ価値観の話

といっても、繰り返しになりますが、まぁ個人的にはそういう話は嫌いではありません。ので、最後にちょっと、蛇足ではありますが、価値観の話にも首を突っ込んでみましょうか。興味がある人はどうぞお読みください。なかったら読まなくて良いです。あくまで蛇足なので。

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「現実による脅し」はもう通用しないのかも

気付いたらブログ一ヶ月以上更新してなかったです。いやまあ、色々忙しさに打ちのめされてました。というか、今もしなきゃならないことは山積みなんですけどね。

というわけで今回は久しぶりの更新なのでネタ多めで。

カンパネラの町並みがおかしい件 - はじめてのC お試し版

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何故ある種のエロゲ好きに白痴が多いのか

「ある種の」というのは、具体的にはid:nakamurabashiと、それに同意したり感動したりしているようなはてブのブックマーカーたちを指しますw

「俺ら」と「AIR」 - G.A.W.

はてなブックマーク - 「俺ら」と「AIR」 - G.A.W.

これだけ長い文をぐだぐだと書きながら、結局言っていることと言ったら「ぼくはかんどうしたからかんどうしたのです。」というような、今時小学生でも書かない感想文であり、知的思惟の痕跡すら感じられない馬鹿しさ。まー端的に白痴と言って良いでしょうね。

何より僕が頭に来るのが、最初に質問者が出している問いでもある「何であんたたたちはそういうキャラが好きなんでしょうか」という問いに対して、散々言葉を弄しながら、結局その質問者という他者に分かるように説明するのではなく、「情念」とか「すべて」なんていう、はなから理解されることを期待していない言葉でもって、自らの感情を確認しているだけという、その不誠実さなんですよ。

別に僕は、明らかにプレーヤーにとって馬鹿に見えるように作られた、そんな白痴ヒロインが好きだとか、あるいは女の子が病気になって死ぬというようなそんなkeyゲーム的シチュエーションが好きだといっても、別にそれだけで非難の対象になるとは思いません。だってそんなこと言ったら僕なんか、主人公を好きであるが故に狂ってしまうようなヤンデレヒロインが大好きだったり、あるいはそれこそそういうヒロインたちが、愛憎の果てに殺し合うような修羅場シチュエーションが大好きだったりするんですから。単純的に倫理的な評価でいうならば、keyゲーム好きより僕の方がよっぽど極悪非道です。

ですが、僕は別にそれが自分の、他人に理解されない「情念」みたいなもんとは全く思ってないわけですよ。むしろ、こんな萌え、別にごく単純で卑小なものであり、それは簡単に、社会的な背景から説明できると思っています(実際そのような作業を、僕は相互理解不可能性としての「狂気」を噛み締めて、それでもコミュニケーションをしていくという記事でしたつもりです)。そして、そのようなことは、絶対泣きゲーとかに萌えている連中にも適用できるはずなんですよ。特にkeyゲームなんて、あれだけ多く売れたんですから、そこに社会的な類型を見いだすのなんか本来はきわめて簡単なはずです。ところが泣きゲーとかが好きなやつらはそういう風に、自らの「萌え」が、一体どういう社会的文脈に基づいているか(例えばABにおいて指摘された「女の幸せ」という言説とか)とか、あるいはせめて、泣きゲーの中のどういう表現がそういう「萌えさせる」機能を持っているかとかいう解釈を全然しようとせず、まるで自分たちの「萌え」が神から与えられた高尚な能力であり、それは決して他人に理解可能な形で説明できないと思っている、その思い上がりが、はっきりいってイライラするわけです。

しかし実際は、むしろこういうイライラするような「自分はそんな社会には還元できないような情念があるからこのエロゲーに萌えるんだ。そしてそんな情念を持つ自分は高尚である!」というような駄文がさんざん繰り返されてきたのが、エロゲ批評の殆どだったりするわけで、このid:nakamurabashiは偉そうに

コメント欄やブコメで触れられているように、そのへんの議論はすでに語りつくされきって枯れた話題でしかない。

なんて言ってますがね、「すでに語り尽くされた」のなら、なんでこういう質問者みたいな質問が絶えることがないのか?答えは簡単。行われたのが他者と理解し合うために行うような「議論」ではなく、ただ自分の「情念」や「思い」を独我的に叫ぶような、クソみたいなことでしかないからですよ。

この記事では、そんなクソの再生産を止めるために、その「クソの再生産」の典型例であるこの記事を、「『物語ではない』という主張の詐術」「個別要素を直視することからの逃げ」「『外の世界』という藁人形」という三段階に分けて分析していきます。そして、その分析から、どうすれば私たちは、id:nakamurabashiの記事のような「白痴によるクソの再生産」を避けながら、作品について語ることが出来るか、考えていきたいと思います。

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