先日書いたこれからニコニコ文化が進むかもしれない二つの道という記事に対し、このような反論がなされました。
今回はこの記事に再反論しながら、前回の記事に補足をしていきたいと思います。
先日書いたこれからニコニコ文化が進むかもしれない二つの道という記事に対し、このような反論がなされました。
今回はこの記事に再反論しながら、前回の記事に補足をしていきたいと思います。
次のようなtogetter(twitterのまとめ)が話題になっていました。
Togetter - 「ニコニコの歌ってみたは『ハイエナに近い』とボカロPが発言。その発言への反応から見えてくる歌ってみた界隈の問題点」
ここで「歌ってみたはハイエナに近い」と言っているボカロPの記事がこちら。
Ohnuma Sound Lab. blog 年の瀬・歌い手・ボカロ界隈・これからの活動
端的に内容を要約すると、「自分がつくってボーカロイド曲を勝手に下手な形やリスペクトのない形で改変したりして歌い、その歌ったものを発表したりしないでほしい。自分がそういう目にあったら即刻その動画を権利者削除する」という内容です。
で、これに対して歌ってみたをやっている方から、「音痴は歌うなってことか?」「みんなでニコニコできない」というような批判がなされているというのが、現状みたいです。
で、僕にとって衝撃的だったのが、件のボカロPが記事に書いた次の文章なわけです。
しかしあれですね、いつかは大福P名義で有名になるような曲を発表して、ハイエナが出たら即権利者削除とかしてみたいですね。ほんとに憧れですよ、そういうの。
「ボカロで曲を作っている人がそれを言い出すのかぁ……」というのがまぁ最初の正直な印象でした。
今でこそそれこそオリジナル曲が沢山あって著作権的にはなんの問題もないボカロ界隈ですけど、それこそ初音ミクがでた当初は大半が既存の歌のカバーだったわけです。そして多くの人がそうやって既存の曲をカバーしたりすることによって技術を蓄えていった訳です。しかしもしその当時、著作権者側が一致団結して大福Pのように「自分の歌のカバーなんてものは許さない!権利者削除だ!」なんてことをやって全部削除していたら、果たして今のボーカロイドの隆盛はあったのか?MIDIのように消え去ってしまっていたんじゃないの?と、思わざるをえないわけです。
ただまぁ、そういう思いはありますけど、一方で「そんな昔のことは俺は知らないよ。今の俺が不愉快なんだから、それは削除すべきだ!」とおっしゃるならば、それは現行の著作権制度で認められた正当な権利ですから、どうぞ行使してくださいと言うしかありませんね。
しかしじゃあそうやってネット上のクリエイターも「権利者削除」を持ち出すことが、ニコニコ動画やピアプロで常態化したとき、その先そこに一体どんな「文化」がありうるのか?僕は大変不安になったりもするわけです。
まあ昔から気付いていたことだけれど、僕の嫌いなものっていうのは世間一般ではとても人気が出るそうで、この文章も例に漏れず多くの人の共感を集めています。
はてなブックマーク - だから、もっと人殺しの顔をしろ - ○内○外日記プラス+
何だろうねぇ……ま、感想を一言で言ってしまえば気持ち悪い以外の何の感想も浮かんでこないんですが、しかしそれでは単なるディスコミュニケーションになってしまうので、何で気持ち悪いか他人に分かるように解説しますか。
まずそもそもこの文章、不必要なよく分からんブンガク的(笑)表現が使われていて大変読みにくいです。そこから僕なんかは、はてブで賛同している連中は本当にこれきちんと読んでいるのか?と疑問に思うわけですが、まぁはてなの人たちはきっと文学にも大層親しんでいらっしゃるんでしょうからこれしきの文章屁でもないんでしょう。
皮肉はこれぐらいにしましょう。これだけ長い文章ですが、内容を端的にまとめて箇条書きにすれば
と、これだけの、まー極めて単純なテンプレ的新自由主義発想でしかありません。ですから、この内容を批判するのも正直テンプレ的な新自由主義批判で十分なわけです。それこそ
などなど反論できます。ただ新自由主義のひとたちもこれで収まってしまうほど馬鹿なわけではないわけで、当然これに対する再反論がなされ……
でも、この文章がやりたいのはきっとそういうことじゃないでしょう。いや、もしこの記事の著者が本当に上記で述べたような新自由主義的考え方を信じ、そこからこのような主張をしているとしたら、そしてだから上の新自由主義批判に対しても反論したいというなら、そりゃまぁきちんと敬意を持って「対話」をしていきたいと思います。でも、賭けても良いけど、きっとこの記事の著者はそんな反論はしてこない。
だってそこまできちんと考えているならもうちょっときちんと、相手に伝えようとする形で文章が書けるはずです。もう回りくどいのではっきり僕の考えを言っちゃいましょう。要するにあんた、「この世はもうお終いだー」という不安を主張し、そしてそれに同意する人たちと不安を確かめたいだけでしょ?そしてあなたが望んだとおり、はてブ欄にはそんな人間がわらわらと群がり、あんたは「あーわたしだけじゃなかったんだ」と、当然得られることが分かっていた確認をきちんと得ているわけだ。極めて予定調和な展開。いつからこんな生温い文章が「極論」なんて言い方で呼ばれるように、日本語の使い方は変わったんでしょう?
そしてそういう文章だからこそこの文章はブンガク的に、感覚を生の「感覚」のまま伝える文章になっているわけです。なぜなら、先に箇条書きにしたように、きちんと感覚を言語にしてしまえば、それは異なる考え方・感じ方を持っている人との「議論」や「対話」に繋がってしまうからです。きちんと安全に自分の考えの正しいことを確認するためには、ああいう文章にするしかなかった。そしてそれは成功した。いやーめでたいめでたい。
……はぁ。
まぁ「日本が滅亡する」なんていうのは右曲りの詐欺師の常套句であるわけですが、しかしその予言が実現した試しなんか殆ど無い。あれだけ「この戦争に負けたら日本は終わる」と叫ばれてきたアメリカとの戦争でだって、結局この国は(良くも悪くも)耐えたわけだし。
そして更に言えば国が無くなったって別に国に生存維持装置を握られている訳じゃないんだから死にゃあしない。そりゃ、多少は不便になったりするかもしれないけど、別にお金が無くたって楽しいことは一杯ある(有ったら更に増えるけど)。どっかの図書館に行くか、ブックオフで立ち読みでもしているか、海でも行って水遊びでもするか。もしみんながみんなお金が無くなったらそもそもモノを買うのにお金なんていらなくなる世界が来るのかもしれませんね。そうすりゃ別に一切の生産活動が止まったって既にあるモノがなくなるわけじゃないんだから、誰も見ないけどとりあえず値段が付いているようなアニメのDVDでももらいあさりますかね。そんでもってそれを元に同人誌なんか作ったりしてそれを無料で配布して……
まぁ、確かに荒唐無稽な話ですよ。でも「この世が終わりだー」なんて話もそれと同じぐらい荒唐無稽な話でしかないんですから。
しかし、こういうような楽観論を唱えても、取り上げている記事の著者のような「この世は終わりだー」教の人は聞く耳を持たないわけです。なぜなら、聞いてしまったら自分の信念が曲げられてしまうから。あるいはこういう風に言ってスルーするかもしれませんね。「君は若いからそんな風に思えるんだ。若くない者にはそのように思えないんだよ。人間の考え方っていうのはそんな急に変わらないんだから」と。
でも、人間の考え方が不変のものだとしたら、じゃあなんで人は赤ちゃんの時と違う考え方をしているのか?それは、赤ちゃんの頃から若い時はきちんと周りの人々と対話をし、そしてそこで他人と考え方をぶつけ合うことを恐れなかったからですよ。ブンガクなんて全く分からない代わりにね。
だとしたら、若くなくなったとしてもそれをすれば良いんです。ブンガク風に顔を飾り付けて、「これが人殺しの顔だぜへへ」とか格好にもなっていない格好付けはやめにして、なんで自分は「自分たちは人殺しであることから逃れられない」と思ったのか。みんなが幸せになる方法を探すことは無理だとなぜ思ったのか、きちんと「他人」に向けた言葉で伝え、対話をすべきなんです。