先日書いたこれからニコニコ文化が進むかもしれない二つの道という記事に対し、このような反論がなされました。

幾那由他の砂に成る - 「ボカロ曲は音楽」である

今回はこの記事に再反論しながら、前回の記事に補足をしていきたいと思います。

まずは逐一ツッコミを

……といっても実は、あんまりこの人の文章、意味が良く分からないんですよね。大福Pの方の文章はまあ同意できないんですけど、それでも言いたいことは分かったんですが、このストラ氏については、前回の記事にもコメントを寄せられているのですが、そこでもルールを作りたい人がいる以上、それに従わずにやるのは自由ではなく無法です。という様なよく分からないコメントがなされていて、まぁよく分からないままの再反論ですから、文意を取り違えているかもしれませんが、そこはご容赦を。

あ、ちなみにコメント欄でストラ氏はまた

歌い手全体をむやみに攻撃しているのではなく、「心無い歌い手」に対してであると思います。

と述べていて、twitter上で大福P氏も同じような勘違いしていましたが、自分のtwitterから引用して言うなら

私はあのブログではまさしくあなたが言う「ハイエナ」を擁護しようと思って文章を書いた訳で,別にあなたが「歌ってみた」全般を嫌悪しているとか思ってません.そしてその上で、僕はあなたの主張である「ハイエナ」排斥に反対しているわけです

ということです。

さて、それでは実際に記事の文章を読んでいきましょう。

この意見をまとめる前までに、大流行しているエルシャダイの例や、大福Pの言うとおりになったらどうなるか?等あるのですが、ここで1つ前提が間違っているところがあります。

それは「ボカロ曲は動画であるということよりずっと前に音楽である」と言う点です。

確かに、ニコニコ動画に投稿されている以上は、ボカロ曲を「ネタや創作となりうる動画の1つ」と見られても仕方がありません。

しかし、大福Pの言われてるのリスペクトとはその「動画に対して」では無く、「創作した人に対して」という点であり、そうなると、もし大福Pの言うとおりになったらどうなるか?って所は前提自体がおかしいことになります。

さて、どうしましょう……早速意味がわかりません^^;いやそりゃボカロ曲は音楽であると同時にニコニコ動画にアップロードされれば動画にもなるでしょう。でもだからそれがなんなのか?「動画に対して」のリスペクトと「創作した人に対して」のリスペクトの違いというけれど、「動画に対してリスペクトしなくてもいいけど作者に対してはリスペクトしろ」というのなら、結局僕の批判する「リスペクトの強要」である点には何の変わりもないですよね?

そして同様に「歌ってみたも動画である前に音楽」のはずなのです。

はずなのですが、曲を作るということと比べて、歌を歌うというのはハードルが低いと言わざるを得ません。

曲を作るというのは0から全てを作り上げる作業である一方で、歌を歌うのはメロディと歌詞さえ覚えれば誰でも出来ます。

ここでは出来た曲及び歌の良し悪しは全く無視していますが、「歌ってみた」で歌われる曲で考えると、間違いなく曲の良さがあるから歌われるのでしょう。

誰しも自分が嫌いな曲を好きで歌いたくは無いわけですから。

歌を歌うことのハードル自体は低いだろうけど、それに力を目一杯注ぐことはできると思うし、逆に曲を作ることを省力化することだってできるでしょう。一生懸命練習した歌手と省力化した作曲者だったら前者のほうが労働量が大きいことはおおいにありえます。ただ、だから何だっていうんでしょうね?

しかし、曲が良いから、曲が好きだから、という理由よりも、人気だから、ネタとして面白いから、という理由で投稿されるのが後を絶ちません。

更には、その曲の良さとネタとしての鮮度をエサに自分が評価されたいと思われても仕方が無い人もいるという。

また、ボカロはあくまで生の人の声では無いため、しっかり生のボーカルがいる曲よりも格段に手軽に歌を入れやすい、という点もそれに拍車をかけています。

上っ面の物だけ気楽に頂いて利益を得ようとする…まさにハイエナです。

利益を得られるということは、それを望んでいる人がいるということですよ。需要者がなければ供給者に利益が出ることはないんですから。そしていくら貴方達が「ハイエナ」と罵ろうが、そういう人たちはそこで需要者に効用=満足を与えている人でもあるわけです。

本来ならそういって気に入った曲なんてものは「鮮度」とか「人気」だとかは関係ないはずで、好きで歌いたくて投稿するならば、時間をかけるなり、練習するなり、自分なりに解釈するなり、色々するに違いないのです。

投稿した結果、再生数が、マイリスが―なんてのは所詮評価されたかされなかったかだけに過ぎません。

評価されたい、人気になりたいならば、それを悟られないように余計に努力を怠ってはならないですし。

曲作る人が全力で取り組んでいる以上、歌うならそれ相応の覚悟はするべきだと思います。

「曲作る人が全力で取り組んでいる以上、歌うならそれ相応の覚悟はするべき」その覚悟って他人が知ることのできるものなの?

「面白い作品」は読書感想文的な環境からは決して生まれない

うーん……ちょっと小一時間考えてみたんですが、多分ストラ氏の頭の中には次のような二つの区別があるのかなと思います。

  • 「音楽」であるボカロ曲―曲作る人が全力で取り組んだもの―「創作した人」そのものと等しい
  • 「動画」(または、それと同じような気持ちでいる「歌ってみた」)―簡単にすぐ出来るもの―「人気」や「ネタ」で作られ、創作者の思い入れなんか殆どない

こういう二分法があるからこそ、エルシャダイみたいなものは所詮後者のことであり、前者の崇高な(自分で言ってて笑ってしまうが)「音楽」には当てはまらないと言うことができ、そして更に後者の領域の「『ネタ』や『人気』のために歌われる歌ってみた動画」が前者の音楽を利用するなんて無礼にも程があると、そういう風に考えられるのかもしれません。

でも、ちょっとでもMAD文化や、ミリしら、アナザーをかじっている人なら、そんなにキレイに分かれるなんてありえないことが分かるとおもうんですよね。先程も言いましたが、一生懸命練習した歌手と省力化した作曲者だったら前者のほうが労働量が大きいことはおおいにありえるわけですが、しかしそもそもそれと「作品をリスペクトすべきかどうか」は全く関係ありません。ある作品、及びそれを作った人について、人々がリスペクトする時判断基準にするのは「その作品が面白いかどうか」のみです。例えば三十分で作った動画だろうが、人々が「面白い!」と思えばその動画と、それを作った人はリスペクトされるだろうし、例え五十年の歳月を費やして必死で作った作品でも、それが人々にとってつまらなければリスペクトされることはないでしょう。「リスペクトされること」=「曲の良さ・面白さ」と、「その曲に対しどれだけ頑張ったか」は、あらゆる表現においてそうですが、特に一発勝負的なニコニコ文化の場合、殆ど無関係なのです。

しかしそのようなあらゆる表現にいえるはずのことを、大福Pや、その大福Pに賛同するストラ氏のような人は「権利者削除」といった強権を用いて否定し、「頑張ったもの」に対してはリスペクトすることを強制し、一方で「頑張ってないハイエナ」は排斥しろとおっしゃる。その先にあるのは一体何か?決まりきったことです。人々はどんどん「面白い作品」よりも「頑張りを認められやすい作品」をつくろうとするわけです。ちょうど学校の読書感想文と一緒です。あれも長い=頑張ったとみなされるから、なんとか水増ししてでも規定の文字数以上にしようと生徒は頑張ります。しかし、じゃあそうやってできた読書感想文が、果たして「面白い」ものであるか?自分の読書感想文を思い出してみれば、答えは明白でしょう。あなた方は、それと同じような状況に、ニコニコ動画を、あるいはボカロ文化を改悪しようとしているように、僕には思えてなりません。

僕が面白いと思うもの―リスペクトがないにもかかわらず、面白い例(音楽の場合)

最後にまとめとして、大福Pのあるツイートを引用し、それに応えたいと思います。

よく「皆でニコニコしたい」「皆がニコニコできなくなる」とか聴くことがあるけど、その「皆」というのはどういう範囲なんだろう。少し興味がある

おそらくここで「皆」と述べているのは、大福Pが「ハイエナ」と呼ぶようなミリしらやアナザーでニコニコしている人たちであり、そういうのを面白がるのは極少数であると、そんな極少数の人々の面白さを排斥したって何の問題もないのではないかとということを、含意しているのだと思います。

では、そこで排斥される「面白さ」とは具体的に一体どのような面白さか?前回の記事ではエルシャダイやミツバチのMADなどを例に出しました。しかしそうすると今度は「それはMADに限ったことで、ボカロ音楽とは関係ない」という風なことを言われました。しかしそれは違います。音楽においてもそのようなMAD的な楽しみ方はあるのです。例えば今回の記事に対するはてなブックマークでの反応(12)では「ミリしらって結局ラップの一種じゃないの?」というようなことが言われています。

monaken これって90年代のサンプリング問題みたい。EMFがマーク・チャップマンの朗読をサンプリングしてオノ・ヨーコをマジギレさせたように

racec 関係ないけど、シド・ヴィシャスの「マイ・ウェイ」最高ってことで。ペットショップボーイズのWhere the Streets Have No Nameは名曲だけどボノに対する悪意があるよね。 http://bit.ly/g9VIBj

metamix 「ミリしら」初めて知った。こいつら新手のラッパーなんじゃねえの?

taketori つまり、誰かのトラックに勝手に自前のボーカル乗っけるってこと?最高じゃん…スベったら最悪だけど…

@nankado ありゃ、大福さん、ほんとーにナイーブな人だなぁ。レゲエのトースティングとか見たら卒倒するんじゃなかろかw

@nankado ニコ動におけるトースティングやラバダブの出現 RT「ミリしら」//「1ミリも知らない〜」みたいなのの略で、「曲を全く知らない」と言う設定で、カラオケに対して自作の歌詞とメロディをのっけて歌うわけです。//「アナザー」とかつけた替え歌//

まぁ、ラップとかそういうものは僕なんかより音楽の作り手である大福P氏や、この件に関心を持っている人の方が余程詳しいことだとは思いますが、僕と同じようにラップとかあまり知らない人のために、一つ例となる動画を挙げておきます(というかこれぐらいしか知らないんだよエラソーなこと言って……)。

聞いてみれば分かると思いますが、これはあの『プリティーウーマン』の曲のメロディに合わせて、2 Live Crewというラップグループがラップをしている曲です。みなさんもご存知のとおり、プリティウーマンという曲はすごい有名な曲ですから、当然その有名さにこの人達は、まさに大福Pの言う「ハイエナ」のごとく、乗っかろうとしているわけです。ではリスペクトはあるか?これも歌詞を読めば分かりますが、元曲で歌われる女性を馬鹿にするような歌詞で、しかも歌い方も、まさしく嘲り笑うような歌い方と言っていいでしょう。少なくとも、凡百の「アナザー」やら「ミリしら」よりもリスペクトの無さという点では段違いです。

でも……それでもやっぱりこの曲、聞いてて面白いんですよねぇ。あの脳天気な曲をここまで笑いものにしてしまうかという点で、リスペクトのかけらもない、むしろリスペクトが欠けているからこそ、クールなわけです。そしてこのように「ベタなものを斜め上から見て笑いものにする」というのは、まさしくネット文化全般に共通する、面白さなわけです。

ですが、やっぱりこういうのは大福Pや、大福Pの意見を支持する人にとっては、「リスペクトがないから排斥されるべきもの」なんでしょうか?

余談

ちなみに、この2 Live Crewの曲ですが、案の定というか、大福Pと同じように元曲の作り手は激怒しまして、著作権侵害であるとして提訴したわけです。

しかし実はアメリカの裁判においては、この2 Live Crewの曲は著作権侵害には当たらないとなりました。一体なぜか?

アメリカの法律には「フェアユース」という規定があります。詳しくはWikipediaでも見ておいてもらいたいのですが、「パロディは元の作品と違うことが明らかだし、別に元の作品が生み出す利益を奪っているわけでもないから(「ハイエナ」って言われるけど、別に歌ってみたおミリしら・アナザーがあるからって元作品の再生数とかが減少するわけじゃないしね)、別に許諾をとらなくても著作物を二次利用していいよ」という感じで2 Live Crewの曲は合法とされたわけです。

ところが、このフェアユース条項は、まぁ色んな事情で(詳しくは知らないw)日本にはありません。いろいろと導入しようかどうかという議論は盛んですが、しかしそこでも「日本版フェアユースではパロディは認めない」とかいう話もあって、どうなるかは正直よく分かりません。

ただ一言言うならば、例え条文がどう変わろうとも、結局最終的に「どのような世界を望むか」ということは、これを読んでいる個人一人ひとりの意志の集まりによって決まるということです。もしフェアユース条項が出来ようが、人々が大福Pのような意見に賛同し、「リスペクトのない歌ってみたを許すな!」となれば、ミリしらやアナザーのような、パロディは常に批判にさらされ、排斥されるでしょう。逆にそうでなく一人ひとりが「パロディとかが認められる面白い世界がいいなー」と思い、そう声を挙げれば、今のニコニコのような面白い場所はまだ、生き長らえることができるのかも、しれません。

……以上、粘着の戯言でした。いや、記事書いたあとにtwitter覗いたらこの発言に気づいて、ちょっとげんなり……

dfk_ohnuma Daisuke Ohnuma

@diveintocloud おいらもこれから好きにやりたいですが粘着する人も出るんでしょうなあwww