だから、もっと人殺しの顔をしろ - ○内○外日記プラス+

まあ昔から気付いていたことだけれど、僕の嫌いなものっていうのは世間一般ではとても人気が出るそうで、この文章も例に漏れず多くの人の共感を集めています。

はてなブックマーク - だから、もっと人殺しの顔をしろ - ○内○外日記プラス+

何だろうねぇ……ま、感想を一言で言ってしまえば気持ち悪い以外の何の感想も浮かんでこないんですが、しかしそれでは単なるディスコミュニケーションになってしまうので、何で気持ち悪いか他人に分かるように解説しますか。

まずそもそもこの文章、不必要なよく分からんブンガク的(笑)表現が使われていて大変読みにくいです。そこから僕なんかは、はてブで賛同している連中は本当にこれきちんと読んでいるのか?と疑問に思うわけですが、まぁはてなの人たちはきっと文学にも大層親しんでいらっしゃるんでしょうからこれしきの文章屁でもないんでしょう。

 

皮肉はこれぐらいにしましょう。これだけ長い文章ですが、内容を端的にまとめて箇条書きにすれば

  • 松山で障害者施設に反対する人たちは別に差別意識なんか持って無く本当に「資産価値が下がること」のみを恐れている
  • そして経済が没落していく日本においては誰もがこのような不安を抱え、人々が富を奪い合う不幸な競争社会が実現する
  • しかしよく考えればもともとそのような競争社会は発展途上国では状態であったのであり、発展途上国と先進国の格差などがいけないと思うならそういう競争社会を受け入れ、その中で生存できるような心構え(それをこの著者は「人殺しの顔」と言っているわけだ)を身につけよ
  • そして国はそのような競争社会で落伍した人に、とりあえず生物的生存は保障するようなセーフティーネットを構築せよ。逆に言えば、人々はそれ以上のものを望んではいけないし、国もそれ以上のものを与えてはいけない

と、これだけの、まー極めて単純なテンプレ的新自由主義発想でしかありません。ですから、この内容を批判するのも正直テンプレ的な新自由主義批判で十分なわけです。それこそ

  • 「松山の人たちに差別意識はない」というが、じゃあ全ての資産価値が下がるような行為に彼らは同じように反対するだろうか?彼らは確かに明確な理由としては「資産価値の低下」を挙げているが、そのようなことが理由として正当だと認められると思う要因には、やはり「障害者ならそういう理由で追い出しても当然なはずだ」という差別意識があったのではないか?
  • 別にみんなが平等に貧しくなっていくわけではなく、一部のものがどんどん更に豊かになってきても居るわけだから、そういう富の再分配をきちんとすればみんながある程度豊かに暮らせる社会は実現する(あなたがリフレ派ならこれに「インフレターゲットによる成長戦略」とか入れても良いですよ?)
  • 「発展途上国の人たちががまんしているんだからお前らも我慢しろ」というのはまさに「犠牲の累進性」であって、突き詰めていけばそれはみんなが不幸になる社会にしかならない
  • 人の必要というのはただ「食っていく」ことができればそれで良いのでなく、極めて多様なものであり、それを保障するためにはやはり個別的なきちんとした福祉が必要だ

などなど反論できます。ただ新自由主義のひとたちもこれで収まってしまうほど馬鹿なわけではないわけで、当然これに対する再反論がなされ……

 

でも、この文章がやりたいのはきっとそういうことじゃないでしょう。いや、もしこの記事の著者が本当に上記で述べたような新自由主義的考え方を信じ、そこからこのような主張をしているとしたら、そしてだから上の新自由主義批判に対しても反論したいというなら、そりゃまぁきちんと敬意を持って「対話」をしていきたいと思います。でも、賭けても良いけど、きっとこの記事の著者はそんな反論はしてこない。

だってそこまできちんと考えているならもうちょっときちんと、相手に伝えようとする形で文章が書けるはずです。もう回りくどいのではっきり僕の考えを言っちゃいましょう。要するにあんた、「この世はもうお終いだー」という不安を主張し、そしてそれに同意する人たちと不安を確かめたいだけでしょ?そしてあなたが望んだとおり、はてブ欄にはそんな人間がわらわらと群がり、あんたは「あーわたしだけじゃなかったんだ」と、当然得られることが分かっていた確認をきちんと得ているわけだ。極めて予定調和な展開。いつからこんな生温い文章が「極論」なんて言い方で呼ばれるように、日本語の使い方は変わったんでしょう?

そしてそういう文章だからこそこの文章はブンガク的に、感覚を生の「感覚」のまま伝える文章になっているわけです。なぜなら、先に箇条書きにしたように、きちんと感覚を言語にしてしまえば、それは異なる考え方・感じ方を持っている人との「議論」や「対話」に繋がってしまうからです。きちんと安全に自分の考えの正しいことを確認するためには、ああいう文章にするしかなかった。そしてそれは成功した。いやーめでたいめでたい。

……はぁ。

 

まぁ「日本が滅亡する」なんていうのは右曲りの詐欺師の常套句であるわけですが、しかしその予言が実現した試しなんか殆ど無い。あれだけ「この戦争に負けたら日本は終わる」と叫ばれてきたアメリカとの戦争でだって、結局この国は(良くも悪くも)耐えたわけだし。

そして更に言えば国が無くなったって別に国に生存維持装置を握られている訳じゃないんだから死にゃあしない。そりゃ、多少は不便になったりするかもしれないけど、別にお金が無くたって楽しいことは一杯ある(有ったら更に増えるけど)。どっかの図書館に行くか、ブックオフで立ち読みでもしているか、海でも行って水遊びでもするか。もしみんながみんなお金が無くなったらそもそもモノを買うのにお金なんていらなくなる世界が来るのかもしれませんね。そうすりゃ別に一切の生産活動が止まったって既にあるモノがなくなるわけじゃないんだから、誰も見ないけどとりあえず値段が付いているようなアニメのDVDでももらいあさりますかね。そんでもってそれを元に同人誌なんか作ったりしてそれを無料で配布して……

まぁ、確かに荒唐無稽な話ですよ。でも「この世が終わりだー」なんて話もそれと同じぐらい荒唐無稽な話でしかないんですから。

しかし、こういうような楽観論を唱えても、取り上げている記事の著者のような「この世は終わりだー」教の人は聞く耳を持たないわけです。なぜなら、聞いてしまったら自分の信念が曲げられてしまうから。あるいはこういう風に言ってスルーするかもしれませんね。「君は若いからそんな風に思えるんだ。若くない者にはそのように思えないんだよ。人間の考え方っていうのはそんな急に変わらないんだから」と。

でも、人間の考え方が不変のものだとしたら、じゃあなんで人は赤ちゃんの時と違う考え方をしているのか?それは、赤ちゃんの頃から若い時はきちんと周りの人々と対話をし、そしてそこで他人と考え方をぶつけ合うことを恐れなかったからですよ。ブンガクなんて全く分からない代わりにね。

だとしたら、若くなくなったとしてもそれをすれば良いんです。ブンガク風に顔を飾り付けて、「これが人殺しの顔だぜへへ」とか格好にもなっていない格好付けはやめにして、なんで自分は「自分たちは人殺しであることから逃れられない」と思ったのか。みんなが幸せになる方法を探すことは無理だとなぜ思ったのか、きちんと「他人」に向けた言葉で伝え、対話をすべきなんです。

余談

しかし実際は、それこそこういう記事がはてブで人気を集めることからも分かるとおり、多くの人が感覚的なブンガクに逃げ込み、「わかんない人はわかんないままでいいよ。世界はもう終わりなんだ……」といじけた態度を取るわけです。ニコニコ動画でも最近ボーカロイドを中心にそういうブンガク的な寝言ポエムを、自分の声で発表するというこれまでインディーズにあった最低限の責任感すら放棄した形で垂れ流し、そしてそれを信仰する信者どもが「神曲!」なんて囃し立てるわけで、そういう動画には大抵「アンチは帰れ」とか書いてあるわけです。まぁこれも一種の「対話の拒否、ブンガクへの逃げ込み」でしょう。

ですが、そんなことをしていたら、結局自分と完全に感覚を共有する人間なんていないんですから、やがてはどんどん孤立していき、一人ぼっちになるだけでしょう。そしてその時、自分の感覚について、それを共有するのではなく、それを「他人」に向けた言葉にする術(「ブンガク」ではない「文学」というものもその術に過ぎないんじゃないかと僕は思うわけですが。自分の中にある感覚を、きちんと他人にも分かるように伝えるために、自分と、自分が生きる世界とは違う虚構を作り出すという点で)を知らなければ、それは資産価値が下がるとかなんてことよりずっとその人にとっては「危機」であると、僕は思うんですがねぇ。