気付いたらブログ一ヶ月以上更新してなかったです。いやまあ、色々忙しさに打ちのめされてました。というか、今もしなきゃならないことは山積みなんですけどね。
というわけで今回は久しぶりの更新なのでネタ多めで。
……はい早速アニメネタですよ。おっかーしーなー、もうちょっと大人になったら真面目な人間になって、セイジとかシャカイのこととかをばっさばっさと論じていく格好いい大人になるつもりだったんだが。まぁいいや。
カンパネラは僕も時々見ています。まぁ、そんなに目立って「これはすごい!」というようなアニメではなく、普通に可愛い女の子たちが一杯出てくるエロゲ原作アニメなんですが、しかしだからこそまぁ疲れているときにぼーっと見て楽しむ分には良いアニメです。
で、そのアニメに出てくる町並みっていうのが、まぁ明らかに南欧の町をイメージしているにも関わらず実際の南欧の風景とは全然違うと、そういうわけです。まあ、ぶっちゃけ「だからどーした」以上のネタではないんですが。
これ、理由としてはそれこそ単純に
カンパネラの町並みはリアルでなくてもいい気が - シンヴェニア
で書かれているように、実際の南欧の町っぽく作っちゃったら圧迫感やら閉塞感やらが出てきちゃうじゃないかというわけです。
ただ、ここで面白いなーと思ったのが、この上記の二つの記事ではカンパネラの町並みのいい加減に対し、ガンスリンガーガールというアニメの町並みの精密さが退避されるわけです。これに対しid:thvenr氏は
もちろん、ガンスリンガー・ガールみたいな、ヨーロッパ的な暗さとか閉塞感のある話なら、リアルなヨーロッパの町並みを使うのは正解だと思います。でも、基本明るいお気楽アニメのカンパネラには、広い道があって、カラフルな家があって、広い空があって、開放感のあるこの町の絵面の方が合ってるように個人的には思います。
という風に、それは作品の雰囲気の違いであるとしているのですが、ここを僕はもうちょっと突っ込んで考えてみたく思ったわけです。
ガンスリンガーというアニメは、簡単にあらすじを説明すると、ハードボイルドっぽく描かれる男たちが女の子たちに人を殺させて、「俺のために戦ってくれる戦闘美少女萌え〜」と「現実の世界情勢ってこんなに厳しいんだぜ。日本人は平和ぼけしてる!」というオタクが好きな二つの語り口を両立させる、とても素敵なアニメです(真面目に知りたい人は紙屋氏の評でも読めば?)。こういう紹介の仕方からも分かるとおり、もちろん僕は大嫌いです(笑)。
まぁそれはともかく、そんなガンスリンガーガールが何でヨーロッパの町並みを忠実に再現しなけりゃならないかっていえば、それは要するに、「女の子が戦っているのはフィクションだけど、でも世界でこういう悲惨な戦い(なぎら的な意味でなくw)が起きているのは現実だよね」というエクスキューズのためです。本当は「女の子が俺様に服従して殺し合っているところ萌え〜」とか言いたいんだけど、ただそういうシチュエーションだけを描くと流石に何か罪悪感が湧いてきてしまうから、そこで「世界の酷い現実」とやらを持ち出すことによって、そのシチュエーションは決して自分たちの欲望によるものなのではなく、「世界の醜い現実」を再現したらそうなっただけなんですよ。俺たちは悪くありませんよと、言うためなわけです。
まぁこう書くと大変ご都合主義的に聞こえますが、しかしこれはある意味では、「現実」を描いているわけですから、写実主義ともいえるわけです。
一方、それに対してカンパネラの方はといえば、一応なんか「南欧っぽい」舞台設定ではあるのだけれど、でもそれは現実の「南欧」を描くためのものでは絶対ないわけです。欲しかったのはあくまで、人々がみんな陽気で、いい人ばっかりという、典型的な「南欧っぽい」イメージであって、現実にイタリアやスペインに存在する「南欧」ではない。みんな陽気で暗いことなんかなーんにもないような世界で、格好良かったり可愛かったりする女の子とイチャイチャしたいよねーという視聴者の欲望をありのままに描くと、ああいう風になるわけです。
これのどちらが良いか、評価は様々でしょう。ガンスリ好きでカンパネラのいい加減さが許せない人からしたら、現実の「南欧」をねじ曲げて、「南欧っぽい」イメージだけを取り出してしまうということは、まさしく「現実」を見ていないということになるでしょう。彼らに言わせれば、「現実の南欧の明るさっていうのは、実はその背後に悲しい歴史やトラウマを背負ったものなんだ。それを無視してただ明るい表層だけを捉えてしまったら、そんなもの薄っぺらな描写にしかならない」ということになるでしょう。
そしてそのような評価に対して反論することも、いくらでも可能でしょう。それこそ僕がまおゆう批判で述べたように、「物語において『現実』を免罪符に使うことはおかしい」と批判することも可能かもしれません。
しかし……そういう反論をすることも出来るのですが、それ以前にカンパネラが割と好きでガンスリが大嫌いな僕からすると、反射的にこういう感想を抱くのです。
「カンパネラの描写ってそんなに薄っぺらいか?っていうかガンスリのあのとってつけたような『世界の醜い現実』描写こそ薄っぺらくね」と。
もちろん、何度も言いますが別にカンパネラってふつーのエロゲアニメです。良い意味でも悪い意味でもエロゲ的テンプレそのままな作品であって、まかり間違ってもガンスリのように朝日新聞で藤本由香里先生が褒めてくれるような、そんなすごい作品ではないわけです。
ところが、しかし僕にとって見れば、そんなお偉い先生が新聞で褒めてくれるような、現実に対してすばらしい問題提起をしてくれるような作品の描写より、そこら辺にいくらでも転がっているようなエロゲ原作アニメの描写の方がよっぽど優れて見えるし、何より琴線に響いてくるわけです。これは一体なんなのか。その背景には、そもそも旧来型の「リアル/まがい物」という優劣関係が揺らぎ始めているということがあるのではないかと、僕は考えるわけです。そのことについて考えるために、今度は次のまとめ記事について考えてみようかと思います。
Togetter - まとめ「田舎のジャスコは「擬似東京」!渋谷=三重のジャスコ。レベル的に。」
はてなブックマーク - Togetter - まとめ「田舎のジャスコは「擬似東京」!渋谷=三重のジャスコ。レベル的に。」
最初のTogetterにまとめられている意見というのは、簡単に言えば「もう今の世の中では東京で手に入るものはジャスコで全て手に入る」というもので、それに対してはてブでは「あるある」「ねーよ」と様々な意見が寄せられています。「ねーよ」側の意見の代表例としては「雰囲気がない」というものが多いです。
さて、実は僕もちょうど4月から、典型的な郊外でそれこそショッピングセンターやらが近くにあったところから東京に引っ越してきた身です(といっても済んでいるところは成増で、学校は池袋という、「お前それ殆ど埼玉に住んでるようなもんだよ」な生活ですが)。そして、引っ越してきて4ヶ月ぐらい経って感じることは、「便利だけど、でも正直地元にいた頃とライフスタイルはそんなに変わらないなぁ」ということなんですね。
まぁこれは、元々僕のライフスタイルがかなり内向的で、趣味は読書とかアニメとかしかないからというのもあるかもしれません。要するにそれこそ地方にいたときだって、Amazonで買えば大体の本は手に入ったし、アニメだってとりあえずAT-Xとか動画サイトとかが見られればどうにかなるのが殆どなわけですから。もしこれがアクティブな人間で、週末は渋谷か原宿の路地裏の店で変わったファッションの服探したり、クラブで夜通し踊り続けたりするとかいう生活をおくっていたり、あるいは下町にすっかりなじんでいたりとかすれば違うんでしょうが。
要するに「東京と地方が違うかどうかなんて、その人がライフスタイルにとおいて何を重要視するかによって変わってくる」という、ごく当たり前の結論がそこからは導かれるわけです。
ところが、実はその今となっては「当たり前の結論」こそ、実は驚くべきことなわけです。先ほどの話につなげれば、これまでは「東京こそがリアル/郊外のものは結局まがい物」という優劣が厳然と存在し、その優劣に従って若者は東京にあこがれ、そしてあるものは東京のリアルの醜い面、つまり「醜い現実」に破れて地元に帰り、またある者はそれを受け入れて、「ハードボイルドな大人」として東京に残ったりしていたわけです。
しかしそのような単純な「上京物語」が、しかしその実「物語」でふり、その物語に沿って生きようとするかしないかはあなた次第である。そんな単純なことがバレてしまったのが、実は現代なのです。この記事
何でもある田舎のジャスコと、東京を知る人と知らない人との格差 - とれいん工房の汽車旅12ヵ月
でも「大量宣伝大量広告の時代の終わり」という風に示されています。ただそこでid:katamachi氏は「東京の幻想/地方のリアル」という風に優劣関係を逆転させた構図を描くわけですが、しかし実はもっとも重要なのは、その新しい優劣関係と旧来の優劣関係、そのどちらも結局個々人の自由であり、等価であるということなのです。
例えばこの記事では、原宿に憧れを抱く女子高生と、それにそらぞらしい相打ちを打つ2人の友人の例が挙げられます。この例をid:katamachi氏は「東京に幻想を抱く若者もまだいる」ということを示す例として提示していますが、実はここで重要なのは、その女子高生本人よりも、それを「白々しく」見ることが出来る友人であり、そして何より、その女子高生を「痛いなー」と思える、私たちの視線なのです。なぜなら、そのような視線が存在することこそが、実は統一した価値基準なんてものがなく、それぞれがそれぞれの価値基準を持ち、それに基づいて世界の出来事を判断しているということなのですから。
しかし一方で、そのように価値基準が多元化した世界であっても、それこそこの件の女子高生のように「でも私にとって原宿はリアル!」と主張すること自体はあり得るわけです。しかし一方でそのようなことが、ある種の人にはウザがられるというのもまた事実なわけ(だからこそこの女子高生は「痛い」とみなされる)で、その対立が表面化したのが、次の論争なのではないでしょうか。
Togetter - 「RAM_RIDER「MOGRAに来るお客さん(特に男性)はもっとお洒落に気を使うといいと思うよ」からのアキバ系クラブとファッションについて」
この論争というのは要するに、あるDJの方が秋葉原のMOGRAというクラブに来る客に対して「もっとオシャレとかに気を遣おう。そうすれば女の子にもモテるよ!」ということを言い、それに対して賛否両論の反応が集まったという者です(この論争について言及する前にまず一言言っておくと、僕はクラブカルチャーというものに対して全然教養がないです。ので、そこの所についてはなんか的外れなことを言っているかもしれませんがお許しを)。
さて、オタクがファッションに無頓着であるということは昔から言及され、オタクバッシングの材料となってきました。本人の意図が実際はどうであれ、やはり発言もその文脈で読み込まれてしまったことは否めません。しかし、にしてもこの反発の大きさというのは一体何なのか。
そこには、「他者に対し価値観を押しつけようとする」ことそのものへの嫌悪感があるのでは、ないでしょうか。その押しつけは、一つは単純に「『お洒落をする』ことが素晴らしいという価値観を誰かに押しつけられる」という意味であり、そして二つ目に、その帰結として現れる「『オシャレ』という行為そのものの押しつけ性」に分けられるのではないでしょうか。
一つ目の押しつけは単純ですね。別にオシャレなんかしたくないのにさせられること、これはすなわち「オシャレすることが素晴らしいという価値観の押しつけ」です。そして二つ目の押しつけ、これは「オシャレ」そのものがそもそも他者への価値観の押しつけではないかという見方です。つまり、不特定多数の他人に向けて「これが私のオシャレです」と示すこと自体が、他者に対し「どういう服がオシャレであるか」という価値観を押しつけることになる。その押しつけ性を、無駄に対立を生むものとして回避したがるからこそ、そのような、特にこの発言の文脈で言われる自己表現としての「オシャレ」に対して嫌悪感を抱くのではないでしょうか。
一方そのようなオシャレそのものに嫌悪感を抱く人々に対し、このDJは次のような言葉をツイートします。
じゃあもっと端的に!「秋葉原にきてる本当に漫画やアニメが好きな女の子たちや働いてる女の子たちがチャラくてゲームも秋葉原も興味ない男どもにもってかれて悔しくないのか」これでいいですか?それでもラブプラスがあるからそれでいいか。
RAM_RIDER
2010-08-25 14:43:21
この発言っていうのは、端的に言えば「現実による脅し」なんですよね。それこそ、一つ前の東京の例で言うならば、「東京にはリアルがある!たからお前ら東京に来い!」と言う女子高生であり、そして二つ目の例で言うならば「ガンスリは世界をリアルに描いている。だから素晴らしいんだ!」というリアリズム派なんです。
このような―はっきりいってしまえば―説教というのはつまり、人々が多元的になり、そしてその中で自分たちの価値基準が認められなくなっているのが悔しいから、万人が共有しているはずの「現実」を持ってきて、それが自分の価値観の基盤となっていることを示せば、他の人もみんな自分の価値観に染まらせることができるだろうという、考えの元に成り立っているのです。
しかしその説教は成立しません。何故か?先ほど僕は価値基準の多元化ということを言いました。しかしそれは、もっと深く掘り下げていけば、実は人々が認知している「現実」そのものが多元化し、個人化しているということなのです。つまり、説教の前提条件である「万人にとって現実は同じである」という条件そのものが成り立っているのです。
例に則して言えばこういうことです。とあるDJ氏は「オシャレに気を遣わないとアニメ好きの女の子がチャラ男にどんどんもってかれるぞー」とか言うけど、そもそも真にアニメ好きな女の子だったらそんなチャラ男のファッションなんか何とも思わねーよ。それで好きになるってことは所詮そいつは偽物のアニメ好きってことだ。そんな女いくらもってかれたって痛くもかゆくもないし、女子高生は「原宿最高」とか言うけどあんな人混みで原価率引くそうな服買うことのどこが最高なの?と思うし、ガンスリは「世界の現実を描く」っぽく見せているけど別に作者がそれを何とかするために活動をしているわけではないし、だったらその「世界の醜い現実」そのものを描くことは「世界の醜い現実」そのものには何の意味もない。そこで敢えてそういう「少女が殺し合って男にすり寄ってくる様子」を描きたいと思うのは、結局「お前らの『欲望』という現実」の結果でしかないだろうがと、こういう風に、「僕の現実」に沿って、説教的なものに反発できるわけです。
このような構図は、説教好きの人間にとってはとても厳しいものかもしれませんが、しかし僕はこれは社会の「良い」変化であると、ひとまずは断言したい思います。なぜなら、このように「現実」というものも結局は万人に共有されるような絶対のものではないという風な認識により、「現実による脅し」が通用しなくなるからです。そして、歴史上の悲劇というものも大体はこの「現実による脅し」によってなされてきました。日本は朝鮮・台湾を植民地支配しなければ生き残れないという「現実」、ドイツはユダヤ人を追放しなければやがてユダヤ人に乗っ取られるという「現実」、アメリカが核兵器を日本に投下しなければ日本は降伏しないだろうという「現実」などなど、「現実」は常に何かの犠牲を強いる道具として使われてきたわけです。ですから、そのような「現実」に対し疑いの目を向けられるようになるというのは、基本的に好ましいことであり、僕はこのような動きを肯定します。
しかし一方で、今回示したように「現実」が、実際は個人的なものであると示されることは、一方で人々に対し存在論的不安を与えるものであるとされています。そしてそのことにより、現実の多元化・個人化の副作用として、友達集団のような、あるいは恋愛関係のような単一の親密圏に内閉していき、そこで共依存関係を築いてしまうことがあるのだと指摘されているわけです。このような問題については、また改めて、ラブプラスというゲームのブームや、あずにゃんぼっち不安という、『けいおん!』のあずにゃんというキャラクターについての不安(http://blog.livedoor.jp/geek/archives/51071732.htmlなど参照)を参照しながら、別の記事で考えたいと思います。とりあえず、今日はここまでです。
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余計なお世話だったらすみません。
かなり楽しみにして待っているのですが…
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