「ある種の」というのは、具体的にはid:nakamurabashiと、それに同意したり感動したりしているようなはてブのブックマーカーたちを指しますw

「俺ら」と「AIR」 - G.A.W.

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これだけ長い文をぐだぐだと書きながら、結局言っていることと言ったら「ぼくはかんどうしたからかんどうしたのです。」というような、今時小学生でも書かない感想文であり、知的思惟の痕跡すら感じられない馬鹿しさ。まー端的に白痴と言って良いでしょうね。

何より僕が頭に来るのが、最初に質問者が出している問いでもある「何であんたたたちはそういうキャラが好きなんでしょうか」という問いに対して、散々言葉を弄しながら、結局その質問者という他者に分かるように説明するのではなく、「情念」とか「すべて」なんていう、はなから理解されることを期待していない言葉でもって、自らの感情を確認しているだけという、その不誠実さなんですよ。

別に僕は、明らかにプレーヤーにとって馬鹿に見えるように作られた、そんな白痴ヒロインが好きだとか、あるいは女の子が病気になって死ぬというようなそんなkeyゲーム的シチュエーションが好きだといっても、別にそれだけで非難の対象になるとは思いません。だってそんなこと言ったら僕なんか、主人公を好きであるが故に狂ってしまうようなヤンデレヒロインが大好きだったり、あるいはそれこそそういうヒロインたちが、愛憎の果てに殺し合うような修羅場シチュエーションが大好きだったりするんですから。単純的に倫理的な評価でいうならば、keyゲーム好きより僕の方がよっぽど極悪非道です。

ですが、僕は別にそれが自分の、他人に理解されない「情念」みたいなもんとは全く思ってないわけですよ。むしろ、こんな萌え、別にごく単純で卑小なものであり、それは簡単に、社会的な背景から説明できると思っています(実際そのような作業を、僕は相互理解不可能性としての「狂気」を噛み締めて、それでもコミュニケーションをしていくという記事でしたつもりです)。そして、そのようなことは、絶対泣きゲーとかに萌えている連中にも適用できるはずなんですよ。特にkeyゲームなんて、あれだけ多く売れたんですから、そこに社会的な類型を見いだすのなんか本来はきわめて簡単なはずです。ところが泣きゲーとかが好きなやつらはそういう風に、自らの「萌え」が、一体どういう社会的文脈に基づいているか(例えばABにおいて指摘された「女の幸せ」という言説とか)とか、あるいはせめて、泣きゲーの中のどういう表現がそういう「萌えさせる」機能を持っているかとかいう解釈を全然しようとせず、まるで自分たちの「萌え」が神から与えられた高尚な能力であり、それは決して他人に理解可能な形で説明できないと思っている、その思い上がりが、はっきりいってイライラするわけです。

しかし実際は、むしろこういうイライラするような「自分はそんな社会には還元できないような情念があるからこのエロゲーに萌えるんだ。そしてそんな情念を持つ自分は高尚である!」というような駄文がさんざん繰り返されてきたのが、エロゲ批評の殆どだったりするわけで、このid:nakamurabashiは偉そうに

コメント欄やブコメで触れられているように、そのへんの議論はすでに語りつくされきって枯れた話題でしかない。

なんて言ってますがね、「すでに語り尽くされた」のなら、なんでこういう質問者みたいな質問が絶えることがないのか?答えは簡単。行われたのが他者と理解し合うために行うような「議論」ではなく、ただ自分の「情念」や「思い」を独我的に叫ぶような、クソみたいなことでしかないからですよ。

この記事では、そんなクソの再生産を止めるために、その「クソの再生産」の典型例であるこの記事を、「『物語ではない』という主張の詐術」「個別要素を直視することからの逃げ」「『外の世界』という藁人形」という三段階に分けて分析していきます。そして、その分析から、どうすれば私たちは、id:nakamurabashiの記事のような「白痴によるクソの再生産」を避けながら、作品について語ることが出来るか、考えていきたいと思います。

「物語ではない」という主張の詐術

まず、そもそも普通に考えれば、「ぼくはかんどうしたのでかんどうしました」なんて感想文は、幼稚園児がそれを書いたならともかく、普通にネット上で発表された文ならば、失笑こそされ決して真面目に相手にされるわけないわけです。ところがこの文ではなぜかそれが認められるように感じてしまう。その際に用いられるのが「このゲームは物語ではない。ポエムだ」という詭弁なのです。

その手順を説明しましょう。まず、この文章では物語を

 まず、物語ってものがなんであるかを考えよう。実験的な文学作品みたいなのは別として、娯楽作品として売られているものならば、俺は、原則的にそれは「俯瞰」だと思う。始点があって終点がある。そしてその始点と終点は、作り手と作者によってある程度は共有されていなければならない。なぜなら、そうでない物語にはカタルシスがないからだ。

という風に定義します(1)。そして次に、妻の言葉を借りたりしながら、AIRにはカタルシスではない余分なものが多いと説明し(2)

 この言葉は正しい。実際のところ、AIRを単なる泣きゲーにするのならば、あの膨大な長さやらよくわかんない設定やらのほとんどは不要だ。たった一人の女の子を殺すために、1000回の夏は必要か? 読んでいる人の涙を搾り取るために、主人公がカラスになっちまってただの傍観者でしかいられなくなって、一人でがんばる観鈴ちんを見せ続ける必要はいったいどこに? それだったら往人がさんざんがんばったけどダメでしたー、ゴールするのは往人さんの腕のなかでしたーのほうがはるかに気が利いている。

そしてそこから

 まさに「だからどうした」だ。観鈴ちんはもんのすごい長いシナリオのはてに、ちっぽけな幸せを得られてよかったね。んで死んだ。だからどうした。なんの意味があったんだ。ここにあるのは、観念とか淡い感情とかそんな曖昧なものばかりで、その積み重ねで最後まで終わる。そういうのは本来は「ポエム」とか呼ばれるべきであって、物語の体を為していない。

なんていう風にして、AIR=ポエム論を展開していくわけです(3)。

しかしここでは、(1)(2)の段階における「物語」と、(3)の段階における「物語」という、それぞれ二つの全く違う意味を持つ「物語」という言葉が、「物語」という記号が同じであるというだけで、同じものとみなされているのです。

まず、そもそも(1)の段階において著者は「物語」について定義を披露していますが、それは端的に言って俺定義でしかありません。そして事実、文章内においても

俺は、原則的にそれは「俯瞰」だと思う。

という風に、「俺は〜と思う」と、俺定義であることが明確に示されているわけです。そして、それが(2)においても適用されている。

ところが、(3)の段階においては「物語」は「ポエム」と対比されるものとして扱われるわけです。もちろんこれは、一般的な「物語」の定義から別におかしなことではありません。何かストーリーがあるのが「物語」であって、そうでなく言葉が散文的にちりばめられているのが「ポエム」であると。ところが、ここで「AIRは『物語』ではない」と言われてるときの「物語」とは、あくまで筆者の俺定義による「物語」(1)なはずであって、「物語/ポエム」というような一般的定義における「物語」(3)ではないはずなのです。にも関わらず、(3)の段階においては「AIRは物語ではないからポエムである」というような主張がなされるわけです。

あるいは、こう言い換えれば筆者の論理展開のおかしさは伝わるでしょうか?「『物語』には膨大な長さを持つものやよくわからない設定はない。そういうものがあるのは『ポエム』だ」と、筆者が言っているのはそのようなことなのです。しかし実際は、膨大な長さやよくわからない設定を持つ「物語」なんて山ほどあり、更に言えば、むしろ「膨大な長さ」なんてものはポエムではなく物語によくあることなわけです。しかし、そのような普通に考えれば分かる矛盾が筆者の詐術によって分からなくなり、その結果「AIR=ポエム」論が説得力を持ってしまう。そしてその結果として、次で述べるように「このAIRというゲームはそもそも他人に説明できるものではないんだよ」という逃げがなされてしまうのです。

個別要素を直視することからの逃げ

このようにAIR=ポエム論を展開した次に、著者は次のようなことを述べ、「AIRのようなゲームへののめり込みは、決して特定のキャラの属性に『萌え』ているということだけではない!」と強弁します。

 あの作品において、観鈴ちんが観鈴ちんである必然性はどこにもない。年齢が高校生であろうと小学生であろうと、そもそも関係ない。観鈴ちんが意外に家事ができることもほとんど関係ない。作品を貫いているものは、作者の、空に向けてでも放つしかないような、あるいは空から受け取るしかないような、諦観の入り混じった慨嘆だけであり、そうした情念が支配する空間のなかに、おそらくは作者が好きであるような女の子を置いただけの作品だ。俺らがなにを消費したかといえば、そりゃ観鈴ちんも消費しただろうが、究極的には作者が作品世界に託した情念そのものでしかないといえる。だからこそあれほど「読んだ」のだし「書いた」のだ。

 まあ、もし観鈴ちんが巨乳メガネ委員長キャラはだったとしたら、俺はあそこまであの作品を好きになったかどうかはわからない。ごめん。たぶん無理。だからといって、観鈴ちん「だけ」を消費したつもりはまったくない。俺はあの作品をまるごと消費した。いまだに消費しつくせていない。

そして更に、そこから筆者は「私はこの作品の『すべて』をいとおしく思っていたのだ」と主張するわけです。

 あれは狭義の「物語」ではまったくなかった。作者が青空と夏の大気と星の夜と観鈴ちんと、そんなようなものに託した情念を、作品を媒介にして俺らは受け取った。それは物語ではなかった。ではなんだったのか。ひとつの「場所」であり「時間」だった。そこには物語がなにもなかったがゆえに、俺らにとってのすべてがあった。あたまよわい子の観鈴ちんもその一部でしかない。俺らにとって、観鈴ちんはなによりも「あの夏」のなかにいなければならなかったのではないか。俺らはなにも所有していなかった。ただ、託した。俺らが欲しかったものや、手に入れられなかったものや、手に入れたかったものや、大気のなかに放つしかなかったようなものや、言葉にできないたくさんのものを。

まさに、記事の最初に述べた、僕が一番イライラした文章です。「大気のなかに放つしかなかったようなもの」って何だよ。気体か?

そりゃある作品を消費するときに、「キャラクター」だけが好きだっていうことはそんなにないでしょう。キャラクターだけでなくストーリーやら舞台設定やら、あるいは作画とか声とか、一つの作品のなかに好きになれる要素は複数あるんであって、それらを複数好きになる可能性は大分あるし、逆に「キャラクターは好きになれないんだけど他の部分は好きだから好き」なんてことも十分あり得る。また、「このキャラクターとこのストーリーが合わさっているから好き」なんてことも、もちろんあり得ます。

しかしだとしても、そこで自分が好きになるのは、それぞれの「要素」であったり、その要素をつなぐ「構造」であると言えるわけが出来るわけです。逆に言えば、そのようなことを説明しなければ、「自分が好きな理由」を説明することなんか出来ないはずです。

ところが、筆者はそのような説明から逃げ、自分はこの作品の「すべて」が好きだ。それ以外言うことはない!と主張するわけです。しかし「作品のすべて」というのも結局は、個々の「要素」と、それをつなぐ「構造」でしかないわけです。ですから「すべてが好き」と主張したいなら、それぞれの要素についてすべて「好きな点」を説明するか、あるいはそれらすべてをつなぐ「構造」を、きちんと説明し、「それをなぜ好きか」解説すべきなのです。観鈴ちんはなによりも「あの夏」のなかにいなければならなかったのだとしたら、「観鈴ちん」というキャラクターと「あの夏」という舞台設定、そしてそれをつなぐ構造について、きちんと説明すべきなのです。

しかしそのようなことはなされない。なぜか。他者に説明する能力が「本当に」欠けているから?そういう可能性ももしかしたらあるかもしれない。しかしそれよりも重要なのが、彼らにはそもそも、自分たちのことを社会的に考え、それを他者に説明する「意志」が欠けているということです。

「外の世界」という藁人形

ここで問題の記事の冒頭に戻ります。そこで筆者は、まず「白痴ヒロインに優越感を抱いているんじゃないの?」という質問者の問いに対して、次のような反論をします。

 わかりきってんだよ。外の世界を見れば、男女はみんな番ってるってのに、自分だけ密室でディスプレーの向こうの女の子すげえ熱心に見つめてて、そんなの、どう正当化したっておかしいじゃない。なにが正常でなにがおかしいかなんて知らないけど、とにかく世のなかの多数派と自分のやってることが違ってるのはわかってる。わかってて、あえてそこへ向かわなければならない理由はなんだって。そりゃ考えるよ。

 優越感? 健常な大人?

 冗談じゃねえ。たとえディスプレーのなかの世界だけであっても、そんなもの持てるくらいだったら、反社会的ってありかたでもっと社会と密接につながれたはずだ。もっとも健常じゃねえ大人は俺らだったんだ。健常じゃない、この世界から何十歩も遅れをとっているような俺らが、かろうじて手を伸ばせば届く場所にいたのが、その「あたまのよわい」女の子たちだったんだ。優越感なんかあるわけねえよ。

別に僕はここで「自分は優越感なんか持ってなかった」と主張すること自体を否定したいわけではありません。もし筆者たちがそれとは違う意見を持っているのなら、それはきちんと「違う」というべきだし、そしてそこで何が違うかを主張すべきでしょう。

ですが、この文章においては、そこで「違う」とはいうものの、そこで「違う」という意見を主張とする根拠としては、「外の世界」というきわめて曖昧なものしか出されず、しかも説明はこれだけで終わってしまい、あとは「その外の世界に対抗していかに自分たちが自分たちの『情念』を大切にしたか」という愚にもつかない話が延々と書かれるわけです。

しかし、もし真剣に自分たちが決して「優越感」から白痴ヒロインを好きになるのではないと説明したいのなら、むしろそこで、「外の世界」と名指ししているものが一体どのようなもので、そしてそこからどのように排除されていたかであるはずです。例えば、「モテ至上主義というような世の中の考え方について行けず、自分がモテる人間でなくても勝手に好きになってくれる人が必要になった」とか「コミュニケーション能力が全般的に求められる社会から逃げて、コミュニケーション能力がなくても付き合える人と付き合いたくなった」というように。もちろんこれは、ゲームをやって白痴ヒロインに萌えた当事者からみたらきわめて表層的な理解であるか、あるいは端的に間違っているかもしれません。ですが、そんなの当たり前なんですよ。だって私たちはあなたじゃない、むしろ対極にいる、白痴ヒロインとか大嫌いなタイプの人間なんですから。あなたたちが一体どういう風に考えて白痴ヒロインを好きになったかなんて、具体的に説明されなきゃ分かるわけがない。

ところが著者のような人間はそのように具体的に説明するのではなく、「外の世界」なんていう抽象的な言葉を使います。しかし、別に人は直接「世界」という実体と対面するわけではないんです。人が接するのはそれぞれ個人の「他者」の言動であったり、振る舞いな訳です。だとしたら、まずはそういう個別具体的なものを説明の際に用いるべきであって、そしてそれらが集まって、そこに何か一つの性質があると分かったときに初めて、「世界」であったり「社会」というものは理解にとって有用になるのです。それがなされずに直接「世界」なんてものを提示されたとしても、それは全くその当人にとっての思い込み、虚構であるという風にしか思えず、理解には何の役にも立たないのです。

逆に言えば、そんな「外の世界」なんて大それたものがすべて敵だと思い込んでいる、むしろそれこそが、必要以上に無力感を生んでしまうのです。それはある意味で悲しいことですが、ですがそこで開き直られて

おっさんが「俺らの好きだったもんバカにすんなー!」とか怒ってる見苦しい文章

とかいう風に臆面もなく言われても困るわけです。っていうかぶっちゃけ憎しみしか湧きません。あんたたちおっさんらが勝手に無力感に縛られ、きちんと自分の好きなものが、なぜ「好き」に値するか説明してこなかったおかげで、私たちはほんと手探りで、きちんと他者と「好き」を理解し合わなければならなくなっているわけですからね!……

「思い」を殊更重要視するのは、もうやめにしよう

しかしまぁ、今更年上世代たちに愚痴を言ってもどーにもならないわけで、私たちはそんな愚痴をはいているよりも、少しでも、上記で見てきたような「白痴によるクソの再生産」を避け、きちんと作品について語り合う方法を考えなければならないわけです。

そして、その際に最も重要なこととして、僕は「『思い』と『情念』とかについて語るのはもうやめにしよう」ということを提言したいと思います。

結局、なんで今回取り上げた記事の著者のようなものが好かれているかと言えば、それが自分たちの「情念」を表そうとしているものだと、理解されているからな訳です。ですが、その結果として、記事は同じような「情念」を抱えていると思い込んでいる連中だけが理解できる記事となり、その「情念」を抱えない人間を排除する、きわめて閉鎖的なものとなってしまったのです。

もちろん、例え出発点が情念のようなものであっても、それがきちんと他者に理解できる、言語に基づいた概念となるのなら、それは表現に値するでしょう。ですが、そこで「言語」から取りこぼされる何かが仮にあるとして、それを重視して結果何もしゃべれなくなるよりは、むしろ何かを取りこぼしてしまうことは承知の上で、それでも他者とある程度の「相互理解」をしようとすることこそが、結果として実りある議論を生むのではないでしょうか。

そしてこのことは「作品」批評だけでなく、社会での議論全般にかんしても言えると、僕は思っています。例えば、よく「不安」とかいうタイプの思いを表したり、また「世界への憎しみ/恐怖」といった思いを表したりといった議論が近年流行していますが、しかしそれらも結局「思い」である以上、それはそのまま他者が存在する「社会」に通用して良い議論ではないはずなのです。例えば、「不安」という思いが問題なら、具体的にどういう「損失」が発生するかもしれないか、またその可能性といったことがあくまで個別的に明らかにされ、そして問題とされなければならないはずだし、「世界への憎しみ/不安」といったこともそう。具体的に世界の何がいやなのか?まずそれをきちんと明確化されなければ、そもそも社会でそれについて議論することは出来ないはずなのです。

最後に

 だからさ。

 海辺の街があって、そこには一人の女の子がいた。季節は夏で、海があって、神社があり、神社へ続く道があり、堤防があって、ぼろい日本家屋があって、夜の星があった。それらが手に入らないという悲しみも含めて、どうしようもなく愛しく思う気分も含めて、すべてがそこにあった。

 夏だった。

 つまり、そんだけだよ。

そもそも、AIRとやらは本当に「そんだけ」なのでしょうか?もしそうなのだとしたら、そこには確かに著者の記事のタイトル通りそこには「俺ら」と「AIR」しか存在しないでしょう。

でも実際は違う。明らかにAIRというゲームはこの社会の中で一大ムーブメントとなり、他の文化に影響を与え、またそれによって自らがいかに解釈されるかをも変容させてきたのです。つまり結局は、本当に真摯に「AIR」を語ろうとすればするほど、「作品全部」なんて言い方は出来なくなり、ある面では要素ごとに分解され、そしてある面では作品外の重要文化へと視野を広げなければならないはずなのです。