AngelBeats!(AB)最終13話に対する感想を一言で表せばこうなるんじゃないかと、感想をまとめたブログなんかを読んだり、twitterでの議論を見たりしながら思いました。

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今日もやられやく 春アニメ話題作 『Angel Beats!』最終回・・・お前らどうでしたか?

『Angel Beats!』#13(最終回)で、仲間が消えた後、音無が奏に「ここに一緒に残ろう」と言い出して非難囂々 :Syu's quiz blog

どういう所が非難を浴びているか。端的に挙げれば次のようなことです。

『Angel Beats!』#13(最終回)における、音無やる夫のAA :Syu's quiz blog

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要するにこれまで散々他人を「成仏」させてきて、最終回でも卒業式をやって「みんなで成仏しよう!」とか言っていた主人公の音無が、いざ二人きりになったら途端に「いや成仏はやっぱやめよう」とか言い出す態度、それを見て多くの人が「はぁ!?」と怒っている。そういうわけです。

もともとこの音無はABの中盤ぐらいからゆりっぺと音無はともにかなり非難されてきました。ゆりっぺはその行き当たりばったりに見える変節加減から。そして音無は、「次は誰にするかなー」と、その世界から人を消し去るという、普通に考えたら殺人と同じようなことを、なんの罪悪感や疑問を感じずに行っていることからでした。

http://twitter.com/sweetsnow/status/15946189841

生まれてはじめて、アニメにマジギレしそうになった。それは、音無が「次は誰にするかな」とサラッと言い放ったからだ。「今日の昼飯なににしよう」くらいの軽いノリで。こいつ人様の命をなんだと思ってやがる。善かれと思ってやっているのがまた腹が立つ。ありえん。

でこの内、ゆりっぺの方は、まぁ最終回においてはなんやかんやで天使ちゃんとも仲良くなって、今までのことを反省しながら勝手に成仏していったから、あまりやり玉にはあがらなかったわけですが、音無の方は先ほど述べたような理由から、それこそこのABという作品の業を一身に背負うかのように叩かれている、そういうわけです。

しかし一方で、じゃああそこで音無が「そいじゃ一緒に成仏しようぜ!」と言ったらABは何も批判されるところのない傑作となったのか?そんなことはないと僕は思うんですね。というかむしろ、あそこで「やっぱ成仏やーめた」と言いたれることが出来てしまうという事実が、このABという作品の本質であるとすら思っているわけです。ですから、もしあそこでシナリオを修正して音無が成仏を選択したとしても(そのような可能性は最終回の最後において示されています)、それは「言い訳」にしかならないでしょう。

今回の記事では、なぜそうなるのか、「顕彰のための施設としての『学園』」、「敢えて描かれなかった『ゆりっぺ』」、そして「私たちの鏡像としての『音無』」という三つの視点から考えていきたいと思います。そして最後に、ではこの作品はどのように評価すべきなのか、というかなぜ「音無とだーまえをひっぱたきたい」という感想を抱くのか、僕の思いを述べたいと思います。

顕彰のための施設としての「学園」

なんでこのABという物語がここまでねじくれた物語となってしまったのか、その大きな要因の一つとして「成仏」という概念の不明確さがあるというのは、多分見ていた人の殆どから同意が得られるでしょう。

普通、私たちは「成仏」というと、それこそ「この世に未練があってさまよっている亡霊を成仏させる」というように解釈するわけです。そしてそういう風に彷徨える亡霊たちを成仏させる作品なんていうのは、それこそアニメやマンガにはたくさーんありました。

ところがそういう作品に対しABは次の3点が大きく違うわけです。

  1. 舞台は現世ではなく死後の世界
  2. そのため未練はあくまでその人の「内心」でのみ晴らされる(具体的な復讐などが出来るわけではない)
  3. しかも一見すると死後の世界は楽しそう

このような違いが出てくるとどうなるか。「そもそも何で成仏しなきゃいけないの?」という疑問が出てくるわけですね。だって別に成仏しなくたってある程度楽しい学園生活は送れるわけですし、更に成仏したって、それこそゆりっぺであれば、その未練の原因となった強盗殺人犯や、そのような世界を作り出した神に復讐できるわけではない。とすれば、そんな成仏を一体誰が受け入れるというのか?

ところが、この物語ではなぜかそれを「受け入れさせる」構造が徐々に形作られていく訳です。しかし視聴者はそこでついていけないから混乱が生じているわけです。だとしたら、まずは一体そこにどのような構造があるのか、考えるべきでしょう。

そしてその鍵となるのが「天使ちゃん」という存在です。ABを見ていた人ならご存じの通り、このABという物語の大きな転換点となったのは音無と天使が結託したことにあります。それまでは音無はゆりっぺのSSSに居て天使と対立していたわけですが、途中から音無は天使陣営に入り、ゆりっぺに刃向かって成仏を推進する側になるわけです。

なぜか?ぶっちゃけて言えばそれは、「天使ちゃんが可愛いから」としか言えないでしょう。まとめブログとかを見れば分かるとおり、(僕はああいう無口キャラには生理的嫌悪感を抱く性格なのでよく分からないのですが)天使ちゃんという存在はかなり現代の人々の「萌えポイント」を押さえてるらしく、ABという物語が破綻していることが明らかになった今でも、「天使ちゃんまじ天使」というスローガンにより、いまだ信者たちはABの良さを主張できて居るみたいです。

そして「天使ちゃんは可愛い→天使ちゃんが間違っていることをしているわけがない→天使ちゃんのやっている成仏は正しいんだ」というように、この物語の中で、音無は「天使ちゃんのために」成仏を正しいと思い、それを遂行していくわけです。

そして、そのように天使ちゃんを中心として物語の構造も転換していくことにより、「成仏」は、その成仏させられる人にとっても、「喜び」をもって受け入れられるよう描かれていくわけです。

これは、何度も繰り返しますが、普通に考えたらおかしなことなんですよ。だって成仏するには現世での未練を解消する必要があるわけですが、実際には現世に復讐なんて出来ませんから、未練が完璧に解消されることなんてそもそもありえない。だから、せいぜい未練を認識しながら、しかしそれでもその未練が完璧には解消されないことに「納得」する、その程度のことしかできないわけです。ところが、このABにおいては、実際は復讐がなされたり、何か世界が変わったわけでもないのに、「成仏」が極めて喜ばしい物として描かれ、そしてそれにより、本来未練がいっぱいあったはずの現世も、当人たちにとってとても喜ばしいものであるかのように描かれる。これは一体何なのか?

僕はここで、哲学者の高橋哲哉という人が『靖国問題』という本の中で、靖国神社を形作るものとして述べた、「感情の錬金術」という概念を思い出します。

靖国問題 (ちくま新書)靖国問題 (ちくま新書)
著者:高橋 哲哉
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先に、戦死者を出した遺族の感情は、ただの人間としてのかぎりでは悲しみでしかありえないだろう、と述べた。ところが、その悲しみが国家的儀式を経ることによって、一転して喜びに転化してしまうのだ。悲しみから喜びへ。不幸から幸福へ。まるで錬金術によるかのように、「遺族感情」が一八〇度逆のものに変わってしまうのである。

……

これこそ靖国信仰を成立させる「感情の錬金術」にほかならない。

P43-44

これ、「国家(天皇)」を「天使ちゃん」に、そして「靖国」を「AB」、あるいはABの舞台となった「学園」に置換すれば、そのままAB評になるような文章にだと、僕は思うんですが、どうでしょうか?(twitterでの発言も、このような認識の元にした発言でした。)

敢えて描かれなかった「ゆりっぺ」

しかしそのような「成仏」に対して、なんとか最終回の一話前くらいまで抵抗していたのが、「ゆりっぺ」だったわけです。ABがこのようにきなくさい構造を持つ物語になっていってからも、なぜ多くの人が未だABを見続けたかといえば、それはまさに、この「ゆりっぺ」が、彼女が持つ、強烈な、決して回収され得ないトラウマを原動力に、そのような構造を破壊してくれるんではないかという、そういう期待があったからであると言えるでしょう。

ところがそのような期待に対し、ゆりっぺはそれを全力で裏切りながら迷走します。その迷走模様をよく表しているのが次のようなAAでしょう。

今日もやられやく 『AngelBeats!』これは嫌だなと思うラスボス

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ようするにあれだけ強烈なトラウマを持ち、そしてそれにより「神に復讐する」という確固たる意志を持っているようなゆりっぺというキャラクターが、なぜか視聴者の目から見るとふらふらしているように見えてしまう。そしてその結果として、結局物語の中でゆりっぺがやったことと言えば、八つ当たりのようにパソコンをぶっ壊して、独りで勝手に納得して天使ちゃんともなし崩し的にしか見えない和解をし、そして成仏していくと、そんなことだったわけです。

なんでこういうことになるのか?このABの物語の原作・脚本を担当した麻枝准(略称:だーまえ)という人は、keyというブランドで美少女ゲームを長年担当し、そしてkeyというブランドのゲームはトラウマをかなり上手く利用して、プレーヤーを「泣かせる」ことに定評があったわけです(僕はやったことがないので分かりませんが)。しかし、にしてはあまりにこのゆりっぺのトラウマ描写は稚拙すぎるというか……例えば天使ちゃんの話や音無の話で泣ける人っていうのはいると思うんですが、ゆりっぺのお話で泣ける人って居るんでしょうか?

精神科医・批評家の斉藤環という人はフィクションの中でトラウマを扱うときに守るべき原則として、次のようなことを述べています。

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著者:斎藤 環
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復讐や悪事の動機としてトラウマを描くことは、映画を台無しにするための近道である。動機としてのトラウマは、最悪の図式の一つであるからだ。むしろ人物のキャラクター設定や、サイドストーリー的な要素として取り込む方が効果的である。つまるところ、トラウマを扱う際の最大の原則は、「トラウマそのものを直接に描いてはいけない」ということに尽きるだろう。なぜならトラウマが効果を発揮するのは、それが常に「覆われた状態」において、であるからだ。

P54

しかしゆりっぺはまさにここでいう「最悪な図式」に則っちゃっているわけです。天使や音無においては、少なくとも最終回以前はできるだけこのようなことにきちんと気をつけていたにも関わらず……

(しかし斉藤環ってkey系のゲームとか大好きな人って印象があるんだけどなぁ。ABについては何かコメントしていたりするのかな)

なんでこうなるのか。単純に作者の技量の問題?しかし僕はそれ以前に、「そもそもだーまえは、ゆりっぺというキャラクターについて真面目に考えていなかった、というか考える必要があるなんて思っていなかったのではないか?」という思いを禁じ得ないんですね。よく考えたらキャラクター造形にしたってそうです。もし本当に重要なキャラクター、自分が描きたいキャラクターと思っていたならば、そもそもあんな涼宮ハルヒに似ているようなキャラクター案許すでしょうか?別に特に重要とも思っていないからこそ、ハルヒと似ていようがどーでも良いと思った、そのような疑念を抱かざるを得ないわけです。

でも、もしこの物語が、「ゆりっぺなんかどーでもいい物語」だとしたら、この物語が描きたかったことって何になるんでしょうか?最初、このABは「人生讃歌」として売り出されました。そしてそこでゆりっぺのようなキャラクターが提示され、そしてそのようなキャラのトラウマや、「成仏」というものを見せられることによって、私たちは自然と「ああ、ゆりっぺのようなトラウマを持っている人間が、そのトラウマを解消して、人生って素晴らしいんだと思える様な、そんな話なんだ」と思っていました。しかしそうではない。じゃあ一体“誰のための”人生讃歌なのか?

……答えはもはや明白でしょう「音無のため」です。この物語は、これだけキャラクターがいながら!そして、これだけ多くのトラウマが語られながら!しかしそれは結局の所、全て「音無」を救うための語りでしかなかったわけです。

私たちの鏡像としての「音無」

普通であるが故にイレギュラーであるという逆説

では音無とは一体どんなキャラなのか。まず重要なのは、最終話でも触れられているとおり、彼がこの物語の中では極めて「イレギュラー」な存在でありということです。つまり、他のキャラクターたちは未練があるからこの世界に来ているはずなのに、彼にだけはそのような未練、すなわち「トラウマ」がないのです。(ここで「いや、彼には事故にあったという『トラウマ』があるじゃないか」という疑問があるかもしれません。しかし彼は途中までそのことを忘れていましたし、さらにその記憶を取り戻した後でも、その「記憶」をもとに行動するというよりは、中真穂助け対であるとか、あるいは天使ちゃんへの愛であるとかいう動機付けによって行動するのであって、あくまで「トラウマ」が原因ではないわけです。音無の「記憶」が蘇らせられたのは、それが音無にとって「意味あるもの」ではないことを明らかにする、ただそれだけの機能しかなかったわけです)。

そして次に重要なのが、、音無の「トラウマがない」ということはこの物語内ではイレギュラーなことなのですが、しかし逆説的に、彼が「普通」であることをも意味しているわけです。そりゃあ確かにアニメやゲームなどの物語、特に近年の物語においては、それこそさっき引用した『心理学化する社会』でも述べられているように、まるで何かしらのトラウマを持っていることが物語に参加する最低条件であるかのように、トラウマ持ちのキャラクターだらけです。しかし一体、そういう物語の中の登場人物のような重い「トラウマ」を持っている人って、現実にはどれぐらい居るんでしょうか?少なくとも僕はそんなトラウマありません(それこそ音無のように記憶喪失にでもあって覚えてないだけなのかもしれないけど、でも自分がそれを覚えてないんだったら、事実がどうだったかはともかく、心的現象としてのトラウマは存在しないわけです)。そしてそれは、このABを楽しんでいる視聴者の殆どについても言えると思います。

この「普通」なのに、そうであることによりその物語の中の世界では「イレギュラー」となれるという逆説。それこそが音無というキャラクターを規定する最も重要な特徴であると僕は考えます。そしてそのような点から見ていくと、音無の行動はとても合点が行くものになるのです。

例えば音無が安易に天使側に寝返ったこと。これも彼の「普通」であるという「イレギュラー」さ故なことは明らかでしょう。要するに別に彼には未練もなにもないわけだから、その未練が「成仏」によってどーなろうと知ったことではないわけです。だから天使ちゃんが可愛いからって簡単に寝返って成仏マンセー派になり、そして更に「次は誰にするかな」なんてことが言えるわけです。この発言は確かに倫理観の欠如であるとはいえるでしょう。しかしそれは、別に彼が異常な人間であるからの欠如ではないのです。むしろ逆に、彼が「普通」であること、それこそがまさに彼から倫理を奪い去ったのです。

そしてまた、そうやって未練もなにもない「普通」だからこそ、最終回で天使ちゃんと二人きりになったときに、安易に「二人でこの世界で暮らそう」なんてことも言えるのです。だって、彼にとっては「未練」とか「成仏」とかほんとどーでもいいことなんですから。それのせいでかわいいかわいい天使ちゃんに会えなくなりそうになるんだったら、そりゃそんな「成仏」なんてぽいっと捨てますよ。

このように、彼はABという物語の中で、自分が普通であるが故に、物語の流れや、他者の意志に縛られないフリーハンドを得られるイレギュラーな存在となったのです。彼はゆりっぺや天使ちゃんや、その他今まで成仏させてきたキャラクターのことなんか一切考えなくて良い訳です。だって、そこで共感するために共有する「未練」がないんですから。だからどこまでも自己中心的に自分のことしか考えずに行動し、しかもそれを物語に認めさせることが出来るのです。これはエロゲー主人公では多いことらしいですが、アニメではあまりないことでしょう。

http://twitter.com/idumi_minami/status/17033516431

誰かに〜してやろう、っていうテーマはエロゲ的ですよね。すごく。エロゲだとその相手が女の子なんだよな。自分より下位に位置している。たとえどんな美少女でも力が強くても。上から目線なんだよ。でもエロゲの構造的にそれが一番やりやすい。でもアニメだと違和感なんだろうね。

ですから音無というキャラクターはこのABという物語を駄目にした主要因であり、まさしくこの物語の「バグ」と言って良いと思います。しかしここで重要なのは、プログラムのバグとは、あくまでそのプログラムにそのバグを生み出すコードがあるからこそ生まれるものだということです。つまり、例え音無という存在がこのABという物語のバグだとしても、そのことはこのABという物語と音無というキャラクターを切り離せるということを意味しません。むしろ、この「バグ」こそが、ABという物語のコアと言っていいのです。

「普通」であることへの居直り

だって考えてもみてください。もしこのABに音無というキャラクターが居なかったら一体どんな物語になっていたか。ゆりっぺが本当に神を殺す物語になっていたか、あるいは天使の善導の元にゆりっぺが納得する物語となっていたか。どっちにしろ、まぁ確かに今のABよりはましな物語になっていたかもしれませんが、しかし少なくともそれは「AB」ではないし、きっと視聴者もここまで盛り上がることはなかったでしょう。ABにおいて重要なこと。それは、きれいな物語であったり、より倫理的な物語であることよりも、とにかく「普通」なキャラクターが物語の中で好き勝手やって、倫理とか善悪とか、そういうことに深く悩まずにぱっと幸福になることだったのです。

なぜそのような物語が求められるか?それはまさしく、「音無」というキャラクターに自分を重ね合わせ、そしてそのことにより現実世界の代償的に物語世界で幸福を得ようとする人々が多いからでしょう。何度も言いますが、私たちはトラウマなんてない人が殆どです。しかし実はそれって、今の不安定化した社会ではむしろ不利になることだったりするわけです。なぜならそれは、依って立つべき「自分」がないということでもあるのですから。何かしらのトラウマであったり、あるいはその反対に強烈な成功体験があるなどすれば、それこそその記憶を元に私たちは自分がいかに生きるべきか決めることが出来るでしょう。ところが、そんな強烈な記憶のない私たちは、では一体そもそも「どのように生きるべき」なのか?不安に陥りますし、またそれだけ自分を他人にアピールするポイントがないということにもなるわけです(このような現象については以前自己啓発に抗してこの再帰的近代に「私」を守るためにという記事で詳説しました)。だからみんな必死で自分探し≒トラウマ探しに精を出すわけです。そしてそのような情景を反映して、現代の物語もまたそのような個人の「トラウマ」をいかに描くかということを重視し、「トラウマなければキャラクターにあらず」みたいな状況が作り出されたわけです。

しかし一方で、そんな社会で、私たちはそのような「トラウマ探し」に疲れ果ててしまっているのも事実な訳です。そんななかで、他方では『けいおん!』や『ガンダム00』のように、過去のトラウマではない現在から、それでも自分が「いかに生きるべきか」ということを、周りとのコミュニケーションの中で見いだそうとする作品が現れているわけ(というか本来アニメが描こうと目指すべきなものってそういうものであるべきだと思うんだけどね)ですが、しかし一方でそのような方向に向かうことなく、「トラウマなんか探そうとしなくても、普通な自分に引きこもっていて良いんだ。そうすればこの世界では天使ちゃんのような人が自分を救いに現れてくれるんだ」というようなセカイの仕組みを捏造=妄想する、ABのような作品が、自分たちの欲望を満たしてくれるものとして、一定層から支持を得ているのではないでしょうか。

音無とだーまえをひっぱたきたい

しかし僕は思うんですが、そういう方向って、結局どこまでいっても「自分」しか見つからないわけで、その自分が「普通」であろうか「トラウマ持ち」であろうが、どちらにしろ結局そこで行われるのは不毛な「自分探し」でしかないわけです。だってそこには「他者」が居ないんですから。

そしてそのことの象徴であるのが、やはり最終回最後の天使ちゃんに対して言った「一緒にこの世界に残らないか」という発言な訳です。確かにこれは、それまで散々物語に甘やかされ、「普通」であることに居直ることを特権的に許されてきた主人公音無からすれば当然の発言だったのでしょう。ですが例えそうであったとしても、それはやはり絶望的に天使ちゃんのことも考えず、なにより今まで自分が「成仏」させてきた他のキャラクターたちのことを考えてない発言でした。何より絶望的なのは、当人が、そのような発言をすることに、何の良心の呵責も感じていないという点です。

だから、僕はこう思うわけです。「音無結弦をひっぱたきたい!」あるいは「天使ちゃん、その音無の頭をひっぱたいてくれ!」と。もちろんそんな最終回の最後の方でいきなりそんな行動に出ることは、より一層物語を破綻させることに繋がるでしょう。しかしそれでも、きちんとこの音無という男に対し罰を与えたい!お前がそうやって「普通な自分」に引きこもり、他人の思いを考えないことが一体どれだけ罪深いことなのか!(先に述べたように、そのような発想の延長上に、靖国神社のような「集団のために個人が死ぬのは当然」という思想が生まれるわけです)、せめて最後で良いから、音無に気づかせたかったわけです。

そして、実はこれと全く同じことを、僕はこのABという物語を書いただーまえにも思っています。ある漫画家さんはABについてこんなことを述べていました。

ANGELBEAT、この展開と状況を誰か俺に分かり易く説明してくれる人は居ませんか誰か現場で脚本家をブン殴る度量のある人間はいなかったのか。

これは全くその通りだと言えるでしょう。むしろこのアニメが始まる前に、このプロジェクトが瓦解するのも覚悟の上でだーまえと大喧嘩してやる人が一人でもいれば、この独りよがりの視点にも「他者」の視点が入り、もう少しましになったか、あるいはもしかしたらエヴァみたいな傑作になれた可能性もあったんじゃないかと思うわけで……なんだかやりきれないなぁ。