http://d.hatena.ne.jp/jugoya/20100523

僕が小説を書いた「サボイ」という同人誌が頒布されるので、その様子を見に行ってきました。おかげさまで、結構売れたそうです。

そしてついでに文学フリマの会場を色々回ったら、結構色々おもしろいものがあったので、それらを紹介した後、全体の感想なんぞをちょこっと述べます。

買った本の紹介

中川康雄、『未来回路』

http://d.hatena.ne.jp/inside-rivers/20100501/1272693144

中川氏があかねで色々やったイベントとかの文字起こしや、その他色々載っていたりしました。

結構内容としては豪華で、普通に本とかを書いたり批評とかを書いている人にインタビューしていたり、また対談では「だめ連」に触れていたりとおもしろい内容でした。それこそ、過去の運動に関する知識と、今最先端を歩んでいる人に話を聞くということを一つの雑誌の中でやることによって、過去と未来を結びつける「回路」が雑誌の中で構築できていたのではないでしょうか。

ただ、ちょっと気になるのが、多分中川氏っていうのは自分の考えというものを何かこう、かちっと持っていて、それを前面に出すならそれはそれで良いんですけど、一方でインタビューとかでは「相手の意見をきちんと引き出す」ということも心がけているわけで、ただその二つっていうのはなかなか相容れないものであり、むしろ相反する方向性であるから、そこら辺でちょっとちぐはぐになっているかなーと思える箇所もありました。

とりあえず目次を見て「買おう」と決意した理由としては、やはり「だめ連」について触れている記事があるから、という点でした。ただ、この記事においてはまぁ「だめな人が集まったってだめなままだよねそりゃ」という至極当たり前な結論で、まぁそうだよなーと思いつつも、何か違った見方が欲しかった気もします。まぁでも、当事者にとってみればそうとしか言いようがなかったということが確認できた点で、十分と言えば十分な気もしますが。

この記事ではだめ連、というかあかねの今後とかいうことが考えられていて、それも多分当事者にとっては重要なことなのだろうけど、外から興味本位で見ている僕のような存在からすると、むしろ「なんかそういう戦略的なことを考えないでいたほうがあかねらしいよねー」とか思ってしまったりもするなー。つまり、「だめ連」っていうのも、だめを抱擁する何か(素人の乱で提示されているような起業みたいな)を導き出せなかったから失敗したということを述べられていたけど、僕が記事を読んでいて思ったのは、むしろ「だめであることを生真面目に何とかしようとしすぎた」ということを感じたわけです僕は。だからこそコミュニケーションもとても辛いものになっていくし、そこで色々軋轢も生まれる。だったらもう、継続性とか一切考えずに、ただ「だめで良いじゃん」と言い、世の中につばを吐きかけていれば良いではないかと。それでいよいよやばくなったらとりあえずは解散しても良いし、そしてまた別の場所でまた別の「だめ連」をやれば良いんじゃないのかなーと、思ったりしました。

あと、読んでいて気になった記事としては、栗田氏のインタビューというのが大変興味深かったです。「相手を萌えさせない」っていうのは、まぁ結構フェミニズムについて考えるときに重要な戦略なのかなと思ったり……

東京学芸大学現代文化研究会、「F6 特集『暴力』」

http://gendai-bunka.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-f927.html

『ヨイコノミライ』評論が載っているというので購入。また他にも色々おもしろい漫画評論とかが載っていました。

ヨイコノミライ評論については、まぁヨイコノミライの現代性の確認という所でとりあえず終わっているのかな−、もうちょっと深い読み込みというか、例えばそのヨイコノミライの「暴力的な視線」を内在的に引き受けた上で、それを克服する道を見いだせないかとか考えました(まあこれは、僕が『ヨイコノミライ』という物語にあまりに深く入り込み、特にある1人のキャラクターを好きになりすぎていることによる、勝手な願望に近い感想なのですが)。ただ、それこそid:kaienとかが「『ヨイコノミライ』なんていうのはすでに過去の物語であり、現代においては克服されている」というような阿呆な主張をしている(『ヨイコノミライ』はほんとに痛いか? - Something Orange)のに対し、『ヨイコノミライ』の現代性を指摘するという意味で、十分価値がある論考だと思います。

あと、この同人誌の中では、矢野利浩氏の「逃れえぬ〈暴力〉の彼方に―サンプリング表現をめぐって」と、鈴木さとみ氏の「藤子・F・不二雄作品における「抑圧」された少女表象―「女のおばけ」という〈暴力〉」がとても面白かっです。

「逃れえぬ〈暴力〉の彼方に」においては、これは近代的自我とポストモダン的自我の違いを「サンプリング」という視点から考察したものてすが、多分今まで読んできたそういう「近代的自我とポストモダン的自我の違い」に関する文章では一番しっくりくる説明でした。そしてそこから、データベース消費においても「データベースという海に『世界』を見る」という感性があるのではないかという指摘は、データベース消費という概念を、悲観的なものからより希望的なものへ発展させる鍵があるのではないでしょうか。

そして、「藤子・F・不二雄作品における「抑圧」された少女表象」の方においては、これは、藤子・F・不二雄作品を丹念に読み解いていくことによって、そこに描かれる「少女」に何が期待されていたかを解き明かした論考な訳ですが、読んでいて思ったのは、「これをあのエスパー魔美の批評家の話に援用するとどーなるのかなー」という意地悪な考えでした。つまり、この話をよく「作品を褒めることこそが批評である」と考えている人なんかが、(そういう人にとっての)ダメな批評をおとしめる為に賞賛するんだけど、でもそれって結局、それこそエスパー魔美という「少女」を利用することによって達成されているという点で、少女を抑圧することによって成り立っているわけです。そこら辺のことを考えると、あのエピソードの意味、そして、それを殊更言及したがる人々の背景の「欲望」が、より明確に分かってくるのかなーと、思ったりしました。

立命館大学ポストモダン研究会「エクセス vol.6」

http://blog.livedoor.jp/posmo/archives/51472104.html

表紙のイラストと大澤真幸インタビューにつられて買ってみた。立命館と言えばコレは結局どーなったんだろーな。

まぁ大澤氏のインタビューは結構今の大澤氏がどーいう主張をしているのかよくまとめられていて、最近の大澤氏がどんなことを言っているのか知らなかった僕には興味深かったです。

ただその他の評論についてはうーん。まぁ、多分ソリが合わなかったって言うことなんだと思います。ローゼンメイデンについての評論では、ローゼンメイデンがセカイ系と決断主義を内在しながらそれを克服していったーみたいなことが語られていたけど、それってただ単に『ゼロ年代の想像力』の主張の流れを焼き増ししているだけにしか思えなかったし、ライトノベル主義者宣言についてはよく分からない。ただ一つ思ったのが、革命的非モテ同盟の人にしかり、左の人って自らの主張をパロディ化することって多いよねということ。逆に右の人はパロディと言うよりはまじめに、それこそ軍服着た萌えキャラに歴史修正主義的な史観を説明させたり、あるいは「ニホンちゃん」みたいに、パロディにするのではなく、そのまま清らかなものとして「日本」を描いたりするわけで、そのような違いってなんなんだろーなーということを考えたりした。

奇刊クリルタイ3、4

http://d.hatena.ne.jp/republic1963/20100519#p2

とうとう買っちゃったクリルタイ。っていうか今更買ってどーすんだという批判は多々あるでしょうが、しょうがないじゃん、時の流れでしか解決できないことってある訳だよ……具体的に言うならば、セットで1000円という風にお安くなっていると聞いたから買った。

ただ、これまでの僕は「読まないまま喧嘩を売る」というスタンスだったんですが、実際に読んだ後の感想としては、「読んだけどやっぱり自分には合わないよこれ」というものだったことを明記しておきます。

なんなんだろーねー。ネット初の同人誌なのに、いや、もしかしたらネット初の同人誌だからこそなのかもしれませんけど、やたらと「自分たちはネット上の議論なんかとはレベルの違う議論をしているんだぞ」臭があるんですね。というか多分議論というもの自体にそんなに重きをおいてなくて、むしろ「議論なんかしてもどーにもならない。そんなことより働けよおまえら」というようなうっとうしいメッセージが雑誌全体に充満している。これはおそらく編集に大きな役割を果たしているid:republic1963氏の傾向によるものなのかなーと邪推したりしますが、まぁべつにどーでも良いです。

もちろんそこで直接的に説教するというよりは、あの界隈の人たち特有の、何重にもエクスキューズをはさんでいるわけですが、しかしいくらエクスキューズをはさんだとしても本質は説教であり、そして説教っていうのはむしろそういうエクスキューズを挟めば挟むほどウザくなりますから、結局半端ないウザさになっていくわけです。

なんなんでしょーねー。そりゃネット上の、しかも非モテやら脱オタやらなんてところの議論を参照したら、そこの議論がくずだらけであることなんか当たり前じゃないですか。みんなそんな中で、真剣に個々のクズと戦ったり、あるいはクズの中にもある良いものを探そうとしている中で、この人たちはどや顔をしながら「ネット上の議論はクズばっか」なんて総論を主張したり、あるいはそれこそ吉田アミみたいに「自分はそういうクズとは全然違うもんねー、受け手2.0だからねー」なんていうことを主張したりする。そして結論が結局「この雑誌を作ることによって出来たオフでの人のつながりが重要」?ふざけるんじゃないって話ですよ。まさしく選民主義と、それに基づく外部への嘲笑こそが、彼らの本性なんだということを確認しましたね。やっぱり読む前に批判した僕は正しかったという感じでした。

文学フリマ全体の感想

といっても、そんなにブースを回れたわけでもなく、また、小説の方は特にあまり回れていなかったわけですが……

まず、「きちんとした本」っていうのが出来てきたという感覚を受けました。それこそ有名人へのインタビューやら、すでに出版界で名の知れた人が書いている文がある同人誌とかもたくさん出展されるようになったという印象です。ただ一方で、そういうものに対しては「そんなもの商業出版でやればいいじゃん」と思ったりもするわけですが、でもまぁ、論壇誌とかももうほとんどない時代には、同人誌でやるしかないのかなーと思ったりしました。

で、そういう「きちんとした本」を除いて考えると、「無理に、出版物であることの独自性を利用しようとする本が多いな」ということを感じたりしました。つまり、「ネット上では発表できないようなものを本では発表できる」という考えの元に、前衛的であったりするような文を載せたものが結構あると。

ただ僕はこの傾向には結構批判的です。例えば、その「ネットには載せられない」というのが、「ネット上に載せたら人気は出るけど、それ以外のことで問題になる」ということだったらまだ良いと思うんですよ。要するに炎上的なことを避けるために印刷物にするという考え方、これは良い。しかし文フリで出されているもののなかには、「ネット上で出されたらあんまり人気は出ず、無視されるだろうけど、本なら読んでもらえるんじゃない?」的な発想の元に書かれた文が結構ある。しかし実際は、ネット上で読んでつまらない文が本にしたらおもしろくなるなんてことはほぼないわけで、そこを勘違いされて、なんか変に前衛的な文とかを書かれても、読者としては困るなというのが、僕の考えなのです。

むしろ文学フリマっていうのは、「面白い文に対して、面と向かった形でお金がもらえる場所」という風にとらえて、そんなに「出版物独自の何か」とかにこだわらない方が良いんじゃないかなー、ということなんかを、思いましたね。