5/17に「どうする!?どうなる?都条例──非実在青少年とケータイ規制を考える」という集会が豊島公会堂でありまして、で、それを聴いてきたわけです。

といっても、どーいうことが話されたかっていう詳細なレポートとかは一々僕が書かなくてもネットで検索すれば

都青少年健全育成条例改正案:不明確な基準論議、表現の自由どう守る - 毎日jp(毎日新聞)

「どうする!?どうなる?都条例」:事実上の「非実在青少年」表現規制か──都条例改正案に批判相次ぐ (1/2) - ITmedia News

「どうする!?どうなる?都条例」:「ゾーニングの顔をした表現規制」「社会の自立の、行政による他殺」──宮台教授 (1/2) - ITmedia News

「非実在青少年」規制反対派がシンポジウム、宮台真司教授らが問題点を指摘 -INTERNET Watch

都の青少年条例改定 漫画家らが反対集会/表現の自由 規制やめよ - しんぶん赤旗

なんていう感じで記事がありますし、twitterでも

Togetter - まとめ「どうする!? どうなる? 都条例―非実在青少年とケータイ規制を考える イベント実況」

なんていうまとめもある訳だからそれはしません。また、「そもそも非実在青少年規制って一体どんなものなの?」っていうようなことも、まぁググればすぐ大体分かることなので論じません。今回の記事では、イベントを聴いていたときに僕が思ったどーでもいい様な感想を箇条書きにして、あと非実在青少年規制とかについての僕の考えを、最後に述べます。

集会でつらつら思ったこと

とりあえず集会の流れ

1.山口弁護士の条例改正案解説

  • まじめだなー。
    • まぁ、ここはきちんと、後々突っ込まれないように説明しているんだろう。
  • なんで藤本先生ずーっと立ちっぱなしなんだろうな。

2.政治家さんによるパブリックコメントの説明や、自分たちに出されたメールの紹介

  • いきなりさっきの弁護士の解説から話のトーンが大きく変わって、「政治家」らしい話し方になったのでちょっととまどう。政治家はやっぱ元気だね。
  • あとやっぱそれが本業だから当たり前だけど、聴衆を引き込む話し方が上手いね。
    • ただ、やっぱそういう話し方に対しては、一方で・・・という側面もあるよなあ。
  • 谷岡郁子氏とか松下玲子氏の語り口と、吉田康一郎氏の語り口を比較して、そこに見える「語り口」の違いが面白かった。端的に言えば吉田氏の語り口って言うのは、やっぱりネット世代以降の人々に良く伝わるようになっているよね。
  • あと、メールとかパブリックコメントで、「『量を競う必要はない』というが、やはりどっちの意見が多いかっていうことは重要だろう」っていうことが多く主張されていたけど、いややっぱ量は、そういうメールやパブリックコメントでは重要ではないと思うけどなー……だって、それこそ手間がかかるこういう意見表明の場では、量としては、ノイジーマイノリティが多くの意見を出して、自分たちを「多く」見せかけようとするのが当たり前なんだから。

3.自主規制の取り組みについて

  • 同人誌即売会の人が結構お年を召した人でびっくりする。元々はどーいう畑の人なんだろうなぁ……

4.PTAの話

  • 川端裕人氏イケメンだなぁ、話も上手いし、なんつーか、モテるんだろうなぁ……。
  • 「PTAに加入している人はどれぐらい居ますか?」という問いに対してちらほら手が上がる。まぁ数は少なかったけど、でももう今ってオタクが当たり前のように親になる時代なんだなぁ……と、改めて実感。
    • そういう親が多くなっていくとPTAってどーなるんだろーね。

5.海外の話

  • 兼光氏も話上手いですねぇ。
  • レイプレイ問題については後ほど触れるけど、「日本文化に対する無理解が背景にある」っていう感じに、相手が文化を押しつけていくルことに対する反発って、まぁ重要なんだろうけど、一方で「文化なら何でも許されるっていうのも違うよなぁ」とも感じる。
  • もちろんそこで相手の文化の押しつけを受け入れる必要はないんだけど、そこで完全なディスコミュニケーションに陥るのでもなく、きちんと「説明」していくことが重要だということを言っているのだなと、解釈。

6.メディアの問題について

  • 田島泰彦氏が出てきたことにちょっとびっくり。まぁ、「表現規制」問題なんだから合ってるっちゃあ合ってるんだけど……
    • 人権擁護法案、また、その民主党案である人権侵害救済法案については異なった意見を僕は持つということはとりあえず書いておきます。詳しくは↓参照

http://www.ymrl.net/sjs7/Rir6/2005-03-15

http://www.ymrl.net/sjs7/Rir6/2005-03-17

http://www.ymrl.net/sjs7/Rir6/2005-03-18

http://www.ymrl.net/sjs7/Rir6/2005-03-20

http://www.ymrl.net/sjs7/Rir6/2005-03-20

7.学者の意見

河合幹雄氏と宮台真司氏が登壇。

  • -宮台氏プレゼンのセッティングで色々ごたごたしてた。あーよくあるよくある。
  • 河合氏の話を聞くのは初めてだったんだけど、結構話上手い。
    • 『日本の殺人』そういやまだ読んでなかったっけ……
  • 宮台氏の話が上手いのはもはや当たり前のことなのでいちいち驚かない。

8.マンガ家とかの意見

  • 時間が推していて話が短かったのがやっぱ残念だなー。どっちかというと聴きたいのは作家の生の声とかだったんで。
  • そんななかで水戸泉というBL作家さんがなかなか上手いスピーチをしていて印象に残る。
    • こういう風に紹介・説明をしてくれる人が現れるっていうことが、現実的に文化ジャンルを守るに際しては重要なんだと思う。

僕が思ったこと。

表現規制が絶対悪であると言うつもりはないが……

実は表現規制については僕は必ずしもそれが「絶対悪」であるとは思っていません。その辺の僕の立ち位置については、以前、「レイプレイ」というゲームが話題になったときに色々書いたのでご参照ください。

http://d.hatena.ne.jp/amamako/20090520/1242764989

http://d.hatena.ne.jp/amamako/20090520/1242800978

http://d.hatena.ne.jp/amamako/20090518/1242801220

ただ、その立場からしても今回の「非実在青少年規制」というのにはやはり反対の立場を明確にしなければならないかなと思っているわけです。その理由については、「萎縮効果の懸念」とか、「規制は最後の手段であるべき」とかいう理路ももちろんあるわけですけど、何より重要なことはやはり「そもそも『健全』って何さ?」ということでしょう。条文の改正案では何度も何度も「みだりに性的対象として肯定的に描写すること」がやり玉に挙げられるわけですが、単純に考えたら「キスすること」やら、あるいは手をつなぐことだって、それは相手を「性的対象」として認識しているからそれをするのかもしれない。あるいは別に都が解釈しているように「セックス描写」とかのみがそういう「性的対象として肯定的に描写すること」と考えても良いかもしれない(もちろんそこでも「じゃあどこまでが『セックス』なのか。同性愛は?ペッティングは?」という問題が残るわけですが)。しかしそれにしたって、現実においても未成年だってセックスはしているし、そしてそういう前提に立った上で、未成年に対し性行為感染症を防ぐための教育などが行われているわけです。そのようなこともじゃあ都条例は認めないのか(例えば、この条例を真面目に考えれば、「セックスはしても良いよ。ただしコンドームはきちんとしよう」という啓蒙マンガ・アニメだって規制の対象となる)?もしそうだとしたらそれは完璧な「純潔教育」な訳で、それを行政が進めるというのは明らかにおかしい。

もちろん個々人が「人を性的対象として見ることは良くない」とか「純潔こそ正しい道だ」という信条を持ち、そしてそれを人々に広めたいと思うことは自由です。そして、そういう自分の主張を広めるために、それこそマンガとかの表現をすることも自由(そういうことのためにも、「表現の自由」はあるのだから)。しかしそれはあくまで「個々人の考え」であって、そのような、「内心の問題」について、行政が人々に強制的な規制をかけることは許されてはならないのではないか。これが僕の考えです。

「想像できない」という不安を解決すべき

ただその一方で、今回のような条例案が出てきた背景を考えると、「今のままの状況で良い」とは僕は考えられないのです。集会では「警察官僚の権益拡大」ということがこの条例改正の直接の要因となっていた、という指摘がありました。しかし、例え直接的な要因がそうだとしても、それが支持される背景には、「今のアニメとかマンガってなんか過激で怖いよね……」という不安が、多くの人々にあり得ることが否めない。もちろん、そういう「不安」を行政に解決してもらおうなんて考えること自体、とても馬鹿げた話なんですが、しかしそういう不安がある以上、例え今回の条例案をなんとかしたとしても、また似たようなものが次々と出てくることは容易に想像できるわけです。じゃあ、その「不安」とは、そもそも一体どのようなもので、それはどのように解消されるのか?

その不安は、端的に言えば「非実在青少年のようなエロいマンガやアニメって、一体どんな人が見ているか全然分からない」という不安です。例えば、集会ではBL規制の話が出てきて、そこで「BLとかを読んでいる女の子って、むしろ性的に奥手だと思うんですがねぇ……」という話題が出され、笑いが起きていました。これは、そういうBLとかを読む人がどういう人なのか、私たちがよく知っているからこそ起きる笑いです。ですが、規制を容認するような人にとっては、そんなことは全然共通理解ではないわけです。もちろん、だからといって彼らはBLを読んでいる人を「性的に奔放である」とも想定してはいないでしょう。むしろそうだったら、逆に「そういう人のためのものなら、大勢にはそんなに影響しないか」と見逃されたかもしれない。問題は、そもそもそういうBL読者のような存在がどんな人々なのか、彼らは頭の中で想像できないということ、その恐怖なのです。

BLに限らずオタク文化というのは、長らく、いわゆる「社会」というものから距離を取ってきました。つまり、M君事件報道などに代表される社会からのバッシングに対して、「いや違うんだ、僕たちの文化はそんなものじゃないんだ!」と声を上げるというよりは、むしろ「そういう偏見を持っている人には何を言っても無駄だから、出来るだけ近づかないようにしよう……」としてきたわけです。そして、それはインターネットなどの情報技術の革新やその他諸々の要因(「大きな物語の崩壊」なんていうこともあるのもね)により、ある程度は成功してきたのかもしれない。

けれど、それが限界にきたということを、今回の非実在青少年規制騒動は端的に物語っているような気がします。つまり、どんなにインターネットなどを駆使して社会から引きこもろうとしても、規模が大きくなれば、それこそ秋葉原みたいな表象に代表されるように、社会に自らの存在を晒さざるを得ない。とすれば、そこでは「偏見を持っている人」にも自分たちの存在が見られてしまうわけです。そしてそこで、偏見を持っている人にもなんとなくそういう人々の存在は見えるけど、でもそういう人たちがどういう存在なのか「想像できない」という不安が、今回の規制の背景にあるのです。

だとすれば、そのような不安はどのように解消すべきか?これはもう、地道な「説明」しか方法はないように思えます。つまり、今回のようなイベントを開くのでも良いし、あるいはメディアや、それこそ議会の公聴会でも良いですから、公的な場で自分たちがどのような存在であるか、そしてなぜそんな危険はないのか、そういうオタク文化を担っている人たち自身が、説明していく、それしか方法はないように思えます。

もちろん、そんなことやったからって、そういう、オタク文化に対して偏見を持っている人が、その偏見を完全になくすということは、ありえないでしょう。相変わらず「変な奴」と思われるかもしれません。

ですが、少なくともそうやって公的な場に出て、自らについて語ることによって、「俺はあいつらが嫌いだけど、でもあいつらがどんな存在なのかなんとなくは想像できる」という風な「想像」が、可能になるわけです。そうすれば、少なくとも今のような「あいつらがどんな奴なのか全然分からないから怖い」というような不安・恐怖は和らぎ、より冷静な議論が可能になるのではないでしょうか。