前回の記事:まおゆう( #maoyu )はなぜ批判されるべきなのか1:肯定的意見のまとめ - 見たり聞いたりしたこと
さて、いよいよ僕自身の批評に移っていくわけですが、その前に、そもそも「まおゆう」ってどんな感じのお話なのか見ていきましょう。
といっても、まおゆう賞賛派の中には、まおゆうは13スレッド費やして書かれた小説なんですが、「13スレ全部読まないとダメだ」という人が居ますが、断言しましょう。それは間違いです。むしろ、13スレ読んだとしてもあなたは1スレ目読んだときと同じ感想しか持ち得ません。賛否抜きにして中立的に考えても、「自分がこれを読んで面白いかどうか」を判断するには1スレで十分ですし、「この物語の流れを理解したい」という風な場合でも、1スレと4スレ、そして10〜12スレあたりを読めば十分です。あと、この物語の本質をよりきちんと批判的に理解したい場合は、13スレ(最終スレ)も読んだ方が良いんですが、正直それはおすすめしません。なぜなら、13スレは、このまおゆうの本質を表すと同時に、もっともダメダメなスレでもあるからです。まぁ、僕の場合、「全部読め」という煽りに乗って全部読んだからこそ、そのダメダメさがよりキツく感じられただけで、そこだけ読んだら別に普通なのかもしれませんが……
まぁとにかく、この物語のエッセンスはとりあえず1スレ目にありますので、まずはそれを見ていきましょう。
まおゆうの三つの形式と、一つの手法
http://maouyusya2828.web.fc2.com/matome01.html(http://d.hatena.ne.jp/emifuwa/20100514/p1の編集を利用)
魔王「この我のものとなれ、勇者よ」
勇者「断る!」
魔王「どーしてもか?」
勇者「アホ云うな。お前のせいでいくつの国が
滅んだと思ってるんだ」
魔王「南の森林皇国のことか?」
勇者「空は黒く染まり、人々は貧困にしずんでいった」
魔王「考え無しに森林伐採して木炭作りまくって
公害で自滅したんだろう」
勇者「公害……?」
魔王「あー。えーっと。そうか、まだ判らないか」
勇者「誤魔化すなっ! 聖王国の大臣憑依だって
魔族の仕業じゃないかっ!」
魔王「欲の皮の突っ張った大臣が政権奪取と
王族の姫君大集合ハーレムを作ろうとして失敗しただけだ。
そもそも逮捕された後に魔族の洗脳とか言い出すのは
人間の悪人の悪い習慣だと思うぞ」
勇者「ごまかすのか……許せん……」
魔王「誤魔化してない」
勇者「南部諸王国と戦争はどうなんだ。俺は戦場で
何百という人間が魔族の軍勢に倒されているのを
この目で見てきたんだ」
魔王「それで?」
勇者「は? 人間世界を侵略してきた魔王、貴様を
許しはしない!」
魔王「どちらが侵略したかという点については見解の相違だ。
こちらにはこちらの言い分はあるが、まぁ、戦争してるのは
事実だなー」
勇者「貴様は悪だ」
魔王「じゃぁ、悪でも良いけど。当然私を殺した後には
南部諸王国の王族も全部抹殺して回るんだろうな?」
勇者「は? 悪はお前だけだ」
魔王「人間が魔族を殺していないとでも?
魔族は悪で人間が善だって誰が決めたんだ?」
勇者「……っ」
魔王「そこで『俺が法だ!』とか『俺が神だっ!』とか
『俺がガンダムだっ!』とか云えたら、お前も
もうちょっと生きるのが楽なのになぁ……」
勇者「うるさいっ!!」
魔王「勇者は好きだから、この話はやめてやる」
勇者「好きとか云うな」
魔王「この資料を見ろ」
勇者「なんだ、これ……羊皮紙じゃないのか?
薄くて白くてつるつるだ……」
魔王「プリンタ用紙だ。それはどうでもいい。書いてある
ことが重要なんだ」
勇者「……えっと、需要爆発……雇用? 曲線?
消費動向……経済依存率?」
魔王「わかったか?」
勇者「なんだこれは。邪神の儀式か?」
魔王「違う。経済的視点から見た巨大消費市場としての
戦争の効用だ」
勇者「……効用?」
魔王「そうだ」
勇者「戦争に意味なんてあるものかっ。
貴様ら魔族が人間世界を滅ぼすための侵略だ」
魔王「勇者がどーシテもと云うなら、ちゃんと戦ってやる」
勇者「っ」
魔王「話によっては、討たれてやっても良い」
勇者「その首差し出せ」
魔王「だから、半日ほど話を聞け」
勇者「……」
魔王「これは100年ぶりのチャンスなのだ」
まぁこんな調子がずっと続くわけです。
さて、ぼくはtwitterでまおゆうについて議論を始めたとき、このようなツイートをしました。
http://twitter.com/amamako/status/14097355198
いやでも実際問題まおゆうを賞賛していて「これこそみんなが読むべき物語だ!魔王サイコー!」とか言っている連中と「日本の朝鮮植民地支配は朝鮮半島を近代化させたから正しかったんだ!」とか言っている連中は、層として似通っているし、メンタリティもほぼ同じだと推測するよ。
http://twitter.com/amamako/status/14097481728
この最初の始まりの部分なんか、まんまマンガ嫌韓流の「朝鮮植民地支配は正しかった」論と一緒の始まり方だものw
どうやらこのようなツイートがかなり刺激的だったようで、以降の議論もこのようなことを中心として議論がなされ、結果twitterでの議論をまとめたtogetterでも
Togetter - まとめ「魔王×勇者は第二の「嫌韓流」か
なんていうかなり刺激的なタイトルを付けてもらえたわけですw。いやでもこのまとめを作成してくれた人には感謝してますよ。こういう刺激的なタイトルを付けてもらえた結果議論がここまで盛り上がり、賞賛側もそれに対応せざるを得なくなったわけですから。それに、まさしくこういうことを僕も主張したかったんですし。
ただそこでどーも、僕がただ単に「まおゆうは、魔王が世界を近代化していき、そしてそれを肯定する物語である。だからそれは、日本の朝鮮侵略を『近代化』として肯定する物語と一緒である」という様に読んだから、嫌韓流と同一視しているんだ。というような曲解が広まったようで、前回の記事で紹介したエクストラレポート・ルームにおいてもそのような批判がなされました。
しかし僕が批判しているのは、そのような「近代化」という内実の問題ではないわけです。更に言えばそれが「魔王によって押しつけられる」こと自体も問題にはしていない(だってここだけ見たら押しつけられるか、そしてそれが成功するかなんか分からないじゃないですかw)んです。では何が嫌韓流と同じであると言っていたのか?それは、次の3点です。
- 「正しいこと」が厳然としてあり、その「正しいことがある」という形式は揺るがない
- そして、それが全ての場面で「会話」によって示される
- 背景の地の文は一切小説内において役割を果たさない
そしてこのような形式のもとに書かれたこの「物語」は、前回の記事でも述べられていた
- 現実の歴史を題材にして、それを物語の中で再現する
という手法で書かれるわけで、重要なのはこの形式と手法の結合なのです。これはこの物語が進んでいっても一貫して変わらず、最終スレまで同じであると言って良いでしょう(まぁ、はっきり言って単調にもほどがある小説です)。
これの何が問題か?それを考えるためには、まず、「人は物語を、どうして楽しむのか」ということを考えなくてはなりません。
物語論の基礎
「そんなこと当然のことじゃないの?」という人もいるかもしれません。ですが、よく考えてみてください。物語っていうのはあくまでフィクション、つまり現実にありもしないことなんですよ?それを読んでも何か現実について知ることが出来るわけでもない、というか「現実」について知りたいんなら単純にノンフィクションやらを読めば良いわけでわざわざフィクションとして読む必要はないでしょう。また更に言えば、人はただたんに、それが「嘘」だから喜んでいるわけではないみたいです。だって物語にも「面白い物語」と「つまらない物語」があるわけで、別に「嘘」なら何だって良い訳ではない。とするとそこには何らかの価値基準が存在して居るみたいだ。では一体それは何なのか?
それは、ある種の「決まった流れ」に沿って動いているかどうかによって決まるのです。
例えばそれこそ「桃太郎」なんか思い出してください。あれは、悪いことをした鬼たちが最終的にその報いを受ける(因果応報)という「決まった流れ」、そしてさらにそこで、桃太郎がただの子どもから、「鬼を退治した立派な男」と成長して戻ってくる(自己感性)という「決まった流れ」が見いだせます。そしてこのような類の、他にもいくつかある「決まった流れ」は、他の物語にも当然あるわけです。他の「金太郎」やら「浦島太郎」やらの他のおとぎ話にも、見いだせますし、それこそ現代のアニメやマンガ、そしてゲームにもあり、そしてもちろん、「まおゆう」にも存在するものです。というか、それがなければそもそもそれは「物語」たり得ないんですから。ただ出来事だけを羅列しても物語は生まれないんです。そこに一定の決まった流れがないと(しかしそこでこの小説は「出来事」だけを羅列しているように見せかける。そこが今後問題になるんだけどね)。
そして、物語がそのような性質を持つ以上、それはフィクションであり続け、「現実」たることはできないのです。だって、現実に決まった流れなんてないんですから。悪がかならず報いを受けるなんてこともあり得ないし、人間はいつまで経っても変化し続けて、一つの人格が「完成」するなんてこともない。そして何より重要なのが、物語にはその「決まった流れ」に基づき、「終わり」が設定されるわけですが、現実には終わりなんて設定されません。現実はいつまでも続いていくわけです(しかしそこでこの小説は長々と書くことによって「終わり」を描いてないように見せかけ……以下さっきの括弧と同文)。
だから「物語」は「現実」たり得ることは出来ない。ところが人はそれでも「現実」を「物語」の様に受け入れたかった。なぜならひとは「決まった流れ」に基づいて考えた方が楽だからです。そして生まれたのが「物語」の亜種、「イデオロギー」なのです。イデオロギーとは、端的に言えば「現実は○○のような物語に基づいて動いている!」と主張する観念です。例えば資本主義のイデオロギーは「アリとキリギリス」という物語と同じように「きちんと労働して蓄財するものが善であり将来成功する。その逆に労働をしないものは悪であり将来当然の結果として飢えて死ぬ」という決まった流れがありましたし、あるいはナチズムというイデオロギーにおいては「神に選ばれたゲルマン民族は当然幸せになるよ。裏切り者であるユダヤ人は死ぬのが当然だよ」という「決まった流れ」が存在しました。
そのようなイデオロギーが一体どんなことを引き起こしてきたか……それは歴史が証明しています。特に日本においてはそれこそ、「アジアの人々を日本が解放する使命を帯びているのだ!」というイデオロギーが、戦争遂行に大きな役割を果たしてきました。例えば日本初の長編アニメとして「桃太郎の海鷲」と「桃太郎 海の神兵」というのがあります。これらはまさに、桃太郎という「物語」を現実に適用したものだったのです。
ですから、物語を語る人たちは、それが小説であれ、あるいはマンガであれアニメであれ、「物語」がイデオロギー化しないようにするということにはものすごく神経をとがらせてきたわけです。つまり、「これを現実と勘違いするな!」と。むしろ現実と全く別個なものだからこそ、物語は「現実にはないもの」を映し出せるんだという観点の元、物語は語られてきたのです。
前回の記事で、id:kaien氏は、「今までの物語は、『じゃあ、私たちはどうすれば良いんだ!』ということに何も指針を指し示してくれなかった。だからそれを指さしてくれたまおゆうは素晴らしいのだ!」という議論をしていることを示しました。ですが、そもそもあれだけ頭が良く物語をきちんと書ける人たちが、そんなことが本当に「出来ない」ことだったと、id:kaienはお思いなのでしょうか?当然そんなわけありません。「出来なかった」ではなく「しなかった」のです。なぜならそれは「物語」をイデオロギー化してしまう所作に他ならないからです。それが今までの作品においてどのようになされてきたかは今後の課題として、とりあえず今はむしろまおゆうがいかに物語をイデオロギー化し、そのことによって人々を動員したのか、先ほどの3つの特徴と1つの特色を元に、考えましょう。
まおゆうという「イデオロギー」
物語を「現実」の代替物となるときに何が問題となるか。まず問題となるのが、物語枠内に当てはまらない「現実」の処理の仕方です。要するに「決まった流れ」にそむく異分子の存在。これを一体どう処理するか。
まず一つに、「物語の中で『真実』と定められたものは、絶対にゆるがさず、そしてその真実どうしが矛盾を起こすことを一切許さない」という立場を取ることです。形式1で述べた「『正しいこと』が厳然としてあり、その『正しいことがある』という形式は揺るがない」はこれに当たります。
つまり、人は物語の中で相反する事実、つまり「矛盾」を見つけると、その物語に嘘くささを感じるわけです。ただ一方で、その「嘘くささ」は通常の物語の語りにおいては、上手く調理すべきものではあるとはされるが、しかし完全になくすべきものとは考えられていないわけで、物語を作る人の中にはむしろ積極的に、物語の中の設定には「矛盾」を作り出すべきだと考えている人もいるわけです。つまり、そういう矛盾を通じて物語の受け手は、「ああこれは現実ではないんだな」と確認すると同時に、そこから更に、この「現実ではない、可能性としての物語」から、また別の「可能性としての物語」を想像することが出来たわけです。
ところが、「現実」たることを志向するまおゆうにおいてはそういうことが許されないわけで、一切物語内で提示している「真実」は整然と整えられ、そこに矛盾は間違いはあってはならないとされるわけです。例えば、まおゆう賞賛派はよく魔王のビジョンが完璧でないことを証明するものとして、「魔王はマスケット砲によってあそこまで人が死ぬことを悔いていた」ということを言う人が居ました。ですがそれは未来予測の誤りであり、現状認識の誤りではありません。「現状認識」という一点においては、魔王はご都合主義的に超越的な特権を得るわけです。統計を元に導き出す推論は誤るかもしれないけど、「統計に基づく事実」自体は絶対に誤らないわけです。そのように「真実」を固定した形で認識できるようにすることによって、物語は「真実の多様性」という、現実にはない物語固有の性質を失い、イデオロギー化するわけです。
そして、それよりさらに必要なこととして、「語り手」を絶対に見えないものとすることがあります。ここで形式3の「背景の地の文は一切小説内において役割を果たさない」が活用されます。つまり、地の文こそがまさしく「語り手」なのですから、それを見せたくなければ、地の文をなくしてしまえばいいのです。そのことによって「私は読者に『自分の解釈』を押しつけてませんよー、これは『現実』をありのままに描いたものなんですよー」というポーズを示すわけです。
そして最後に一番重要なこととして、「決まった流れ」を出来るだけ読者に気づかれないようにしながら、描くということです。例えば前回の記事における超克派の感想として、「この物語は勧善懲悪を超克しており……」というのがありました。ですが皆さん、作中でどうやってそれらの人物が描かれていたかを全て無視して、結果だけ見てごらんなさい。滅びなかった「悪」がありますか?そう、「ない」んですよ。改心するか滅びるか。実はこの物語、極めて勧善懲悪的なんです。ですが人々はそれを感じない。一体なぜか?答えは、形式2、「全ての場面が「会話」によって示される」からなわけです。つまり全体の流れが指し示されない。あくまでその局所局所だけが描かれる。だから物語としては「決まった流れのない『現実』を描いている」とされるんだけど、しかしそれを認識するところではきちんと「決まった流れ」に基づいている(会話の「どこを」描くかは作者によって決められるんだから当然なんだけどね。ドキュメンタリーが「現実」たりえないのと同じ理由で)と、そこで人は、本来「『決まった流れ』に則って描いているから『決まった流れ』になっている」はずなのに、「『現実』をそのまま描いても『決まった流れ』になるんだ!」と勘違いするわけです。それこそまさにイデオロギーの本領な訳です。
これらのことにより、まおゆうという「現実の歴史を題材にした物語」は、見事に現実を詐称する、「イデオロギー」となるわけなのです。では次に、このような前提に基づいて、ではまおゆうというイデオロギーはどのように人々に読まれているか、見ていきましょう。
「まおゆうを読む」とはどのようなことか
先ほどから僕はさんざん口を酸っぱくしながら「まおゆうは、物語を『現実』の様にしている」ということを主張してきました。しかしそれはもちろん、「まおゆう読者はこれを実際の世界の歴史だと勘違いする」というようなことを主張しているわけではありません。しかしじゃあエンターテイメント派が主張するように完全なエンターテイメントとして消費されているのか?そうではありません。そこには、嫌韓流と同じように、それを「現実」として受け入れさせるトリックがあります。それは「教科書としての現実」です。まおゆうに対する有力な見方の一つに、「教科書として読む」ものがありますが、まさにそういうものとして、まおゆう読者はまおゆうを「現実」として認識するのです。
ちょうど社会科か、あるいは英語の、教科書や副読本を想定してみましょう。そこでは男の子と女の子が会話をしています。彼らは時にゴミ問題であったり日本の政治のことであったり、あるいは英語の教科書ならば「これはペンです」、「私はリンゴが好きです。」みたいな会話をしているかもしれません。そういう教科書を読むとき、その男の子と女の子が「実在」している、なーんて思う人は居ないでしょう。その意味では別にまおゆう読者もまおゆうが史実だと思ったりはしないわけです。しかし一方で、そういう風に理解していたとしても、教科書によって授業を受ける生徒は教科書を「現実」として理解するわけです。それと同じように、まおゆうを読む人はまおゆうを「現実」として理解するわけです。そしてだからこそ、「教科書」が嫌いな人は、生理的にこの小説を受け入れないのです(但しその逆は真ではないけど。だってこの教科書は、教科書でありながら「物語」だもの)。
実はこのような観点に立てばエンターテイメント派がなんでそういうことを言うのかもはっきり分かります。彼らは生徒に「この教科書は純粋に面白いものから読もうよ!」と薦める教師なのです。もし本当に純粋に楽しいならそもそも「純粋に面白いもの」なんて言う必要がないわけですから。
ところが、じゃあこのまおゆうは、教科書派が言うように純粋に、世界の仕組みについて学べる「教科書」として読めるのか?もしそうなら、別に批判されるものではないでしょう。ですがこの「まおゆう」は、教科書な訳ですが、しかし一方で、そこにはイデオロギーとしての物語が含まれています。教科書のように複数の人によってつくられ、中立性が考慮されているわけではありませんから、当然そこには一定の価値基準、「決まった流れ」があります。もちろん、これはまおゆうがただの「物語」であるなら、当然許容されることです。ですが、そこでまおゆうがイデオロギー化を選択するがために、大きな問題となるのです。それが一体具体的にどのような問題か。最後にそのことについて、まおゆうの最終スレを参照しながら考えていきたいと思います。
精霊「二つのどちらを選ぶか、君たちの自由だ」←それって結局二つしか選べないように制限されているってことじゃん
実は、この物語というのは、その最後まで、その「物語」としてのしっぽを出しません。だからこそ退屈だったわけですが、一方でこのまおゆうは、だからこそ自らが「現実」であると偽り続けられたのです。
ところがそれはまおゆうの「終わり」において、矛盾をきたすわけです。なぜなら、「終わり」とは物語と現実の違いを、最も明確に示す地点だからです。すなわち、物語は「終わる」が、現実は決して「終わらない」。現実は終わらないからこそ、そこで「決まった流れ」なんかもありえないのです。
ですが、終わることを強いられたまおゆうは、最終スレ付近においてまるで断末魔のごとく次々とおかしなことになっていきます。あれだけ現実的な描写にこだわっていたまおゆうにおいて、突然「世界は一つのシステムであり、そしてそのシステムが自らの均衡を保つために、『勇者』と『魔王』という役割を二人に割り当てた」などというトンデモ設定が飛び出してきます。ですが、このトンデモ設定がなければ、「魔王は魔王になる理由があった」、「勇者には勇者になる理由があった」という「決まった流れ」を示すことが出来ないのですから当然なわけですが。そして更に、光の精霊というご都合キャラも飛び出し、そしてそのキャラが主人公たちに二つの選択を迫ります。曰く「このままずーっと何も変わらない社会」か、「大きな犠牲を出すかもしれないがその世界の均衡を破ること」……
はい、ここで皆さん、一つ重要なことを覚えましょう。これからの人生においてぜーったいに役立つ知識ですから。
二項対立の内どちらかを迫られるっていうのは、大抵それ以外のあらゆるものを見えなくするための装置である
光の精霊は「私がずーっとこの世界を停滞させてきた」と主張しますが、まぁそんなこと現実ではありえないわけです。そんな超越的存在なんかは存在せず、世界は、人々が望もうが望まなかろうが常に変化しているわけです。ところが、それを認めてしまうと自分たちのすべきことに対して「決まった流れ」を信じることが出来ない。だからここで非現実的な精霊なんてものを出すことにより、「世界を変える私たち」という「決まった流れ」を提示せざるを得ないのです。そして、このようなシステムとか精霊とかいうトンデモ設定をむりやり使うことによって、この物語は強引に終わるわけです。あたかもキリスト教というイデオロギーが、「ハルマゲドン」というトンデモ設定を用いることにより、イデオロギーとして現実を模しながら「終わり」をねつ造したようにね。
まぁ、キリスト教に比べたら、この終わり方ははるかにできが悪いわけだけど、まおゆうという物語も、これで終わり、そして「イデオロギー」として不滅の命を得ます。「勇者が勇者として存在し、魔王が魔王として存在したように、私が私として存在するのも、システムによってもたらされた意味あることなんだ!」という風に自己啓発派はこの物語を基礎に絶えず自己啓発し、そして「世界を変えることを選択するんだ!」と超克派は、(彼らの頭の中にある)閉塞した時代を打破せよとアジテーションを行う、とても気持ち悪い光景が待っているわけです。
何が気持ち悪いか?物語がイデオロギーとして現実を詐称することの最も怖い点は、それがコミュニケーションを経たものでないために、きわめて独善的であると言うことです。それこそid:kaienやid:izuminoやid:sikii_jの態度を見ればそれは一目瞭然です。「なんで世界を変えよう!と思うことがそんなに良くないことなのか?」、「なんで自己を啓発することが良くないことなのか?」、彼らはそれについては全く疑うことをしません。その考えの中身が実際にどの程度批判すべきものなのか。それは置いておきます。問題は、それがイデオロギーに基づき、コミュニケーションの中で鍛えられたものでないという形式です。そしてそれはイデオロギーが物語を元にするものである以上当然のことであるのでしょう。だって物語っていうのはあくまで「独考」から形作られるものなのですから。だからこそ、本来物語は意図的に「現実」から距離を置き、虚構でなければならないわけです。そして現実から距離をおき、「現実ではないもう一つの可能性」という風に自らを位置づけるようにすることによって、現実との関係を得て複数性を獲得する。逆に、物語が現実となってしまったら、そこには「現実=物語」の単一しか存在しません。だからこそイデオロギーは必然的に、暴走から逃れることは不可能なんです。
願わくば、せめてこの記事が、彼らの「暴走」を防ぎ、まおゆうというイデオロギーを脱イデオロギー化する助けにならんことを……
(とりあえず終わり。ただ気分が乗れば、次回はまおゆうと他の、コードギアスとかデスノートとかハガレンとかの作品と比較し、まおゆうに比べてそれらがいかに巧みに、自分たちがイデオロギーにならないよう防いでいるかを書きたいと思う。物語の表面だけ見て「そういう作品と同じじゃん」と言う態度があまりに多いからね……)
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もう今日の話になっていますが、蒲田産業プラザPioにて行われる文学フリマで ゆとり世代部の「ゆと部報 vol.10」と そのさらに一部有志のミニコミ「サボイ」を領布します。僕は「サボイ」の方に「U-49」という、牛久大仏をテーマにした小説を書いていて、当日は僕もそこに居るので、「あんな偉そうなことを言っているはじゃあどんな小説を書いているって言うんだよ?」とか、「こんな酷いことを書く奴の顔が見てみたい!」とか言う人は、是非お越しください。


Comment
それこそ、貴方が読者を馬鹿にしすぎでは。
私は貴方の言う『エンターテイメント派』ですが、別にまおゆうを全肯定するワケでもないです。
が、人に勧めるくらいには好きですよ。面白いですし。
基本的にまおゆうをエンターテイメントとして語らない連中(貴方を含め)の言葉は、読者を馬鹿にしすぎなんですよ。
まおゆうを読んで思想に影響をうけた! なーんて浅い人間は、そうそう居ないですよ。
大多数の読者は、
「はーん? この物語(作者の思想+キャラ萌え+展開)面白いなー。こんな考え方とか発想もあるんだねー。まぁ、俺はそう思わないけど、こういう考え方もあるんだね」
みたいな。
それを「〜派」とか区切って語ってるのを見ると、痛々しさとイラつきがMAXですw
長年ネット上で小説読んでる身からすれば、こうやってムキになって『解釈』に走る人たちはWebSS慣れしてないんだろうなあとしか思えない。
そして、単純に楽しんでる人をdisってるのを見ると、嫌悪感で胸がいっぱいですぅ! ステキ!
いや、言ってもいいと思うしWebSSなんてもっともっともーっと軽いもんでしょ
勝ち負けはともかく「いい話だよ派」と「ヤバイ話だよ」派の闘いよりは
「マジメに受け取ってるだろ派」と「エンタメとして楽しんでるんだよ派」の闘いの方が
騒動の根幹としては本質的な気はする
web開闢以来おなじみのマジレスしたがるヤツとネタだと割り切るヤツの喧嘩。
まおゆうを現実の歴史、政治、社会に還流させている人をのみ相手にしたエントリでエンタメとして割り切ってる人には関係ないですね。
コードギアスもデスノートも鋼の錬金術師も「アニメ」「漫画」
しかも大ヒットした部類の商業作品じゃないですか
加筆・修正前提で書籍化が進められている「まおゆう」のWeb版を批判するために
これらを引き合いに出すのは正直「愚劣」な手段だとしか思えません。
こういう話題は書籍が出て、それでもヒットしてから論じるべきです。
まぁ、上記3作品はどれも最後に主人公が死んでしまうか、過去に不幸を経験している作品なので、
最後で魔王か勇者が死なないと貴方は書籍版にも納得しないんでしょうね。
ちなみに私はどの作品も好きですよ。
たかがエンターテイメント作品がイデオロギーを持って大衆を扇動できるなら
まおゆうの前に桃太郎が批判されるべきですねw
この物語の設定や群像劇としての小道具として使われる近代史ワード、思想ワードをどこまで作者に歩み寄って読むべきかという問題でもあります。プロットや各ワードの組み込まれ方や指摘されてる物語の終わり方の方法論の全ては既視感のあるありふれたものを小道具として使ったにすぎず、群像劇である一点(とその過程での複線の回収具合)がこの作品の本来のポイントだと思うので。
はてな界隈を中心に爆発的に話題に上がらなければ、ただの便所の落書きだったものですし。
そこら辺がみんなが面くらってるところの一つでもあると思います(まおゆうに限ったことじゃないのに、なぜあえてまおゆうで暴発した!的な、もしくは、ならば全ての物語を批判側は否定するのか的な)。
というわけで、
>次回はまおゆうと他の、コードギアスとかデスノートとかハガレンとかの作品と比較し、まおゆうに比べてそれらがいかに巧みに、自分たちがイデオロギーにならないよう防いでいるかを書きたいと思う。
是非、ここまで書いていただきたいです。面白い記事になりそうですし。
違いが気になりますので、解説期待しております。
>二項対立の内どちらかを迫られるっていうのは、大抵それ以外のあらゆるものを見えなくするための装置である
ってのは、作品内の青年商人が魔王を名乗らされる場面の
>中年商人「二重拘束だ」
辣腕会計「は?」
中年商人「無茶な選択肢を2つ突きつけて選ばされてる。
選んでいるようで、追い詰められてるだけだ」
ってのと同じじゃね?
重要なことを覚えましょうって・・・・読んでいない人に対して書いてるわけでもあるまいに
1.教科書は「中立的」であると認識することに無理はないか
2.最終的に物語になったならそれは問題ないのではないか
3.コミュニケーションを経たものでない、あるいは独考であるとはどういう事か
4.脱イデオロギー化すると言うことは本当に可能か
1.と4.はほぼ同じですし、これについては後に書いてくださるそうなので期待しています。
私はまおゆうを読んで面白いと思いましたし、少なからず衝撃を受けました。またあなたの評論も興味深く読ませていただきました。そのことで評価のさだまっていない状態なので、答えていただけるとありがたいです。
そーか?むしろ、一定の共通理解の上に(=ある程度「決まった流れ」に沿って)、その上でどう独自性や意外性を出すかじゃないのか?決まった流れに沿うだけのステレオタイプな物語が面白いと評価されるとは思えない。これがヒット作の条件だったら同意だけど・・・いわゆる大ヒット作はお約束な展開であることが多いけど、売り上げに比して評価は低いことが多いですよね。
記事には関係ないけれど、いまどきネットに携帯番号を晒すなんて正気の沙汰とは思えない。即刻削除したほうがいいと思います。
ブログ主さんからしてみれば、自分は「エンターテイメント派」に
分類されてしまうタイプでして、そんな奴からの意見は
聞いてもらえないかもしれませんが・・・
私の知りうる限り、古今東西、洋の東西を問わず
世にある多くの物語は、大なり小なり作者の思想、価値観、
あるいはイデオロギーといったものが反映されてます。
ノンフィクションですら、取材をした作者の思惑が
入っているものも少なくはありません。
その意味で「まおゆう」は、従来のものと比べ
さほど珍しいものでもありません。
違いがあるとすれば文の形式です
全てがセリフだけで構成される、子供でも読みやすい形式ですから
taitiroさんが前回の記事でおっしゃった「みーんなとっくにそこで議論してるからさぁ。」と
いえる地点まで到達してない若い人もたくさん読んでいらっしゃるでしょう。
逆に、そういった反応に対して、博識のある方が
「批判されるべき」などと、わざわざ噛み付くほどのものではないと思います。
ただ、一つの作品、一つの思想にとらわれる事はよろしくありませんね
そこを伝えるための記事を書くのであれば、アリではないかと思いはします。
「まおゆう」はイデオロギーの一つでしかないのですからね
そのためにも「まおゆう」を面白いと感じてらっしゃる方々には
もっと他の様々な作品も読んでいただきたいものですね。
そうなんですか…興味深い記事です。
>僕が「イデオロギー」という風に批判しているのは、そのような物語的性質を持った物語が、しかしまおゆうにおいては「現実」として描かれる。そこには「現実」との間の距離感が全くないということなのだけれどなぁ。
というアレへの反応をひとつ。
物語中で語られる現実は、物語なんですよね。
物語内で現実はこんなだよ的な事を言っている架空の存在を描く物語。
これは普通に読んでる人なら分かると思うんだけど、これに"そこには「現実」との間の距離感が全くない"などと言うのは、
『"現実と空想の区別をつけられない"とオタクをdisる現実と空想の区別がついていない人』と凄く似てる。
それこそ、そんな事は大半の読者にとって、自明どころが前提なわけです。
>光の精霊は「私がずーっとこの世界を停滞させてきた」と主張しますが、まぁそんなこと現実ではありえないわけです。そんな超越的存在なんかは存在せず、世界は、人々が望もうが望まなかろうが常に変化しているわけです。
っていう文がありますけど。その後の二者択一についての言及もありますけど。
当たり前だろwww だいたい二択に絞ってるのは光の精霊個人とかのレベルの意見じゃねーかwww
それで語るなら司令官とかも取り上げてあげろよwww 異種族は下等とかよwwwwww
そういう『フィクション』を大真面目に「現実として描いているから〜(キリッ」とか言ってるのを見るとウザいんだよwww
畑違いの作品をdisるなら個人の感想だろうが、読者側を変な解釈でカテゴライズする思想が気持ち悪くて仕方がないんだよwww
物書きはそういうのを飲み込んだ上で作品を公開するけどなw 読者は違うんだよww
思想以前に常識について学べww お前は芸能人でもない人間の中傷記事を書く週刊誌の編集者かwww
要約すると、
>「ボキがDisられてる気がするのでムカつきます」
銀英伝読んでヤンやラインハルトの思想や発想がけしからんとか言う人はいたとしても、それを理由に「だから銀英伝は批判されるべきだ」とか「田中芳樹は(ry」とか言う人って具体的にいうと「馬鹿」だと思うんですが。
これは銀英伝に限らんのですけどね。ドラマのホワイトハウスとかでも良いのですが、戦争や政治やらが絡む群像劇の劇中における思想や政治的発言というのは文字通り「劇的」なもんに過ぎんので、無論それに感化されてしまうようなリテラシーの低い方やそういう低い方相手に商売しようとする方々(肯定・否定両陣営)もいるでしょうが、それはその人たち自身の問題だよなぁとしか思えません。
次のエントリーは「全部釣りです、反応してくださってありがとうございました」ですかね。
そして戦争の効用について語る場面でも、例えば「戦争による人口の増加」という例に対し一般解とは違うこの世界特有の現象というような説明を施しており、これだけでも、まともな読み手ならこの物語の戦争やその効用に関する部分でフィクションという要素を認識せざるえません(人口の増加だけが一般解から外れるとしてあとは一般解ぶってるのが問題だ!とかトンチキな事言う人でしたらごめんなさい)。
まぁなんつうか、まおゆうをイデオロギーとして語りたがる人こそが物語に現実を無理繰り投影して現実世界も物語世界もぐっちゃぐちゃに歪めているんじゃないかとか思うんですがね。
現代から、映画も、小説も、全部消えてしまいます。
もしくはよろしくない日教組教育じみたものも感じます。
あなたの批判するところをあなた自身も実践しています。
二律背反を否定しませんが、自分の場合だけ認めろと言うのは頂けませんね。
恥も外聞もなくこんなコメントを良くかけるな
楽しんだ人もいれば不快に思った人もいるただそれだけ
ほんと、全部読む必要ないねwww
叩かれてチンコ勃っちゃうたいぷなの?
夜勤帰りのお兄さんがヤッてあげようか?
まおゆう=アップルパイ
主さんは
「みんなはアップルパイが好きだと言うけれど、俺は嫌いなんだよね」
と言いたいんですよね。
その根拠として、
通常の料理人(作家)は、パイ料理(物語)を作るとき、中身の材料(イデオロギー)に味が左右されないよう苦心する。ベーコンとジャガイモのパイも、ホワイトクリームのパイも、肉と芋と牛乳を直に食べるのではなく、パイ料理として完成したものを味わってもらうために。しかしこのアップルパイはリンゴの味がしっかり残っている。だから美味しくない、と。
乱暴にまとめてみたけれど、筋が全く通ってないように感じます。人の好みをとやかく言うつもりはありませんが、論の展開については視野の狭さが目立ちます。そして、専門分野+α程度の浅い読書経験しかないような印象を受けました。少なくとも、説得力のある文章ではありませんでした。
私の読解力が不足しているからかもしれませんね。是非とも次の作品比較で納得せざるを得ないような文章を書いて欲しい、と願うばかりです。
まおゆうの場合1スレ目から露骨すぐるw
あんなのを希望だとか言って絶賛する人が出た時点で相応のツッコミも出るのが必然。
というかブログ主さんはご苦労さんw
「何故高学歴でネットリテラシーがある『はず』の人々が、まおゆうにハマったのか」
という問いかけが、今後行われるべきでしょう
ただ楽しんでる人たちはともかく、まおゆうを経典のごとく用いようとしたり
『布教』する人々には辟易します。ネットしか能のない人が
やっと世界に通じる言葉を手に入れて、はしゃいでる感じ
オウムや学生運動のような気持ちの悪い純粋さを感じます
それはこのコメント欄からも明らか
まおゆうにハマった人々が「まおゆうを途中で読むの止めた?あんな素晴らしい物語やめちゃうなんて
コイツはほんとに救えねえなwww」と、未読or敬遠派を誹謗中傷する世の中にならないことを願います
それはまおゆうの外見から最も離れた行為だと思うので
(まおゆうの根幹からすれば正当な行為なのだろうけど)
変わったHNですね。まぁそれはおいといて。
まおゆうを経典のごとく用いたり布教してる人ってそんなにいますかね。
0とは言いませんが、あの作品を面白がった人の総数から見たらごく一部だと思いますよ。
ましてや「高学歴でネットリテラシーある『はず』」という人がその中にどれだけいるかというのは疑問ですね。
一歩引いてネタとして経典扱いするような事はあるかもしれませんが。
もっとも、私と違う基準で仰られてるのかもしれませんし、せっかく
> このコメント欄からも明らか
といわれる以上、このコメント欄にもそういう事例が散見しているのだと思うので、できたら具体的にどの方のコメントからそうした兆候がみられるのかご教示いただけないでしょうか?
ちなみに私は未読派や挫折派の方々には趣味趣向が違うんだろうな、という風にしか思えません。私自身、人が面白いというもので自分もそう感じられるものなんてそうそう多くないですからね。
ただ、敬遠してるだけなら1スレの気の向くとこまでで良いから目を通してみては?と思います。その上で、ここの主さんのように「1ページ目で面白くない」と思ったら全部読むべきじゃないと思います。最初つまらないけど徐々に面白くなる、というタイプの作品じゃないと思うんですよね、あれは。そういう薦め方する人自身は絶対に最初からはまってる(その事に気付いてないか忘れてるか無理矢理読ませようとしてるだけ)と思います。
「何故、物語をイデオロギーとして利用するべきで無いのか」を、
かつてイデオロギーとして制作され利用された物語と、その歴史を紹介する必要があるのでは無いでしょうか。
物語には力がある。
たかがエンターテイメントと仰る方々は、その力を見くびりすぎているように思えます。
たとえ自分は距離を置いた読み方が出来たとしても、他の人もそうだとは限らない。
また、距離を置いているつもりでも、心の奥底に澱のように残る物が必ずあります。
大塚英志はイラク戦争初期の流れを「ハリウッド映画の流れをなぞったものだ」と言っていますが、
実際、TV中継を見て「ハリウッド映画みたい」と思った方は結構いるんじゃないでしょうか。
そして、まさしく映画を見るようにドキドキワクワクした覚えはありませんか?
我々が普段気がつかない所で、物語の力は利用されていますよ。
実際のところ、「まおゆう」自体にそこまでの力はないでしょうし、
事実こんなのただのローカルなSSで、まったくもって他愛も無い話なのですが、
それでも出版される事を踏まえると、taitiroさんのように誰かがこのような指摘をする事は必要でしょうね。
がんばって下さい。
イデオロギー色は薄まるでしょう。恐らく。
その時、自己啓発派や超克派(教典の原典にゾッコだった人々)は
「こんなのまおゆうじゃない!」とでも言うのでしょうかね
今から楽しみです。
>このコメント欄での反応を見るに、
>「何故、物語をイデオロギーとして利用するべきで無いのか」を、
>かつてイデオロギーとして制作され利用された物語と、その歴史を紹介する必要があるのでは無いでしょうか。
ネットSSを読むのにそんなものは必要ないそうですよ(爆笑)
手軽に無料で拡散する出来の悪い政治コピペと同じように、こういう羊の皮を被った物語には
注意深く接しなければならないのにw
それと
○この物語はこういう理由で面白いのでお薦めします
×この物語は問答無用で面白いから読め、とにかく読め!批判は許さん!
「絶賛すぎて気持ち悪い」って言うほうがバカ
まおゆう信者さんに×の人が多いような気がするんですけれど
これは宗教と何が違うんでしょう?
自分で何を言ってるかわかってるのか
現実と混同するやつなんているとは思えない。単にいろんな物語が世の中に出たせいでシンプルな物語は読者の興味を引けなくなった→現実にあるさまざまな要素を取り込んだ(経済とか)ってだけじゃないの?その中で「まおうゆ」は一般的にはエンターテインメントとは相性がよくない経済等の要素をうまく盛り込んでると思うけど・・・
批判のための批判あるいは、「まおうゆ」を絶賛している人たちが気に食わないだけのように見える。
こんなご都合主義の物語が、現実と錯誤されると本気でおもってるの?
勧善懲悪ってのも大魔王が出てくる時点でわかりきったことでしょ?
従来の魔王・魔族vs人間という善悪が外されてることに対して勧善懲悪を超えていると主張されてるだけであって、大魔王や白なんとか王が悪であることが感じにくくなってると本気でおもってるの?
勝手な想定をしてそれを否定することで主張するって・・・
まさに、イデオロギーにこりかたまった人間の発想ですねw
人生を変える前代未聞の物語、だと自己啓発派や超克派が言って宣伝して回ってるので
そうなんじゃないですか?
>勧善懲悪ってのも大魔王が出てくる時点でわかりきったことでしょ?
>従来の魔王・魔族vs人間という善悪が外されてることに対して勧善懲悪を超えていると主張されてるだけであって、大魔>王や白なんとか王が悪であることが感じにくくなってると本気でおもってるの?
勧善懲悪、二項対立を超えた「未だかつてない物語」だと自己啓発派や超克派が言ってるので
この引用部は彼らへの批判になりますね。
>勝手な想定をしてそれを否定することで主張するって・・・
>まさに、イデオロギーにこりかたまった人間の発想ですねw
ブログ主=自己啓発派、超克派と対立する立場 であり
のむらはコメントNo.31の1段落と2段落で自己啓発派、超克派と対立する内容を書き込んでおきながら
最後の段落でブログ主批判とは、脊髄反射でまおゆうを庇おうとするとこうなるという馬鹿の見本ですね。
「まおゆう( #maoyu )はなぜ批判されるべきなのか1:肯定的意見のまとめ - (前エントリ)」
からじっくり読み直しては如何?
「現実と混同」じゃなくて「イデオロギーに無自覚なまま薦めまくってる奴ら」が問題なんだっつーの
まおゆう信者ってこんな奴ばっかりw
俺は違う!と主張すればいいのよ…
>「正しいこと」が厳然としてあり、その「正しいことがある」という形式は揺るがない
>そして、それが全ての場面で「会話」によって示される
>背景の地の文は一切小説内において役割を果たさない
こういう文学の形って、実はめずらしくないんですよ。
一部の実存主義系の文学
蟹工船等のプロレタリア文学、
マルクス主義フェミニズム文学とかも、
こんなテイストですよね。
まぁ、三番目が異なっていて、
地の文もイディオロギー的解釈で埋め尽くされていると。
で、こういう文学に影響されたやつらがいて、
彼らも大体同じような主張をするとw
つまり、この形式は宣伝という意味で有効なんです。
ここで、学ぶことは、三つあります。
1)昔とっていた左の戦法を右が追従している。
2)右左関係なく、この宣伝方法は有効である。
3)右の人から見ると、左本を読んで宣伝された人が気持ち悪く見え、
左の人から見ると、右本を読んで宣伝された人が気持ち悪く見える。
自分たちからすると気持ち悪くない。
最近になって、左の人は、どうも気持ち悪いと思われるということを自覚するようになったようです。
で、より暗示的に、寓話的に、サブリミナル効果を狙ってイディオロギーを表現(不況)するのがトレンドのようです。
(地味に効果があると僕は思っているのですが、目に見えて効果がないようで、
左の人にはフラストレーションがたまっているように思います。
結局、隠喩よりも大声で叫ぶ人の方が洗脳力がありますから)
そういうトレンドを肯定する人は、
脱イディオロギーという文脈で昔の左翼の採った手法を攻撃するわけです。
このブログも、脱イディオロギーを主眼にして批判しています。
でも、バランスとる配慮はまったくしてないと。
例えば、大学闘争時代とそのころの文学とかを入れて、
左をちょっとけなすような配慮があると、読み方が違って見えると。
そうなってないってことは、
トレンドの隠匿イディオロギーによる、イディオロギー批判ってわけですわ。
そういう目で見てみると、メタな視点で面白いですね。
こんなものが「批評」なんて言われるとひどく不愉快。〈私も小説書いたことあるから文学については専門家ですww〉みたいな思いが多分あるんだろうけど、それただの勘違いだから。
そんなん「俺中学校の頃に一回オリエンタリズム読んだことあるから社会学者を名乗れるんだよ」みたいなもんだ。専門外のところまで出張ってきて偉そうな面しないでください。
しかも面白くない感じの
「物語(フィクション)を、まるでほんとのことみたいに描くのはけしからん」
「会話だけで地の文がない物語は、まるでほんとのことみたいに読めるものだ」
「イデオロギーは、すべて、けしからん」
「物語が現実ではないことを明示するために、物語の設定には矛盾が存在するべきだ」
などを、主張しているのだろうか。どれもこれもアホな主張としか思えない。
まあ、「まおゆう」が「美味しんぼ」「ドラゴン桜」なんかと似たような、
「マニュアル系」「教訓垂れる系」の作品で、その点ちょっとウザイ、ということであれば同感だけど。
わざわざ深く読みすぎで
これはこうで、自己啓発なんだよ! とか周りが勝手に決めつけるの。
そもそも まおゆう自体もその時のVIPの流れとかで
話が動いてたってのに。
…ワザワザ創作文(しかもラノベ系列)見るのに
そんなに深く考えてないよ、おいらは、
そんなにいろいろ言うなら自分も2chに書けばいいじゃん日刊で数ヶ月がかりの誰にも批判されない完璧な物語をさ
ママレが凄いのはご都合主義だろうが何だろうがきちんと伏線やらなんやら全部回収しきり、登場人物全てが魅力的な個性を持ち成長しながら最後はきちんと終わらせたことでしょ。作者の考え方だとか何だとかは作者しかわからないのに勝手な解釈を押し付けて批判するとか華がない三流やね。
SSは深く考え過ぎず楽しんだもん勝ちってのが一番の真理だろ
>それは間違いです。むしろ、13スレ読んだとしてもあなたは1スレ目読んだときと同じ感想しか持ち得ません
鏡を見ましょう
信者ウゼーって愚痴る辺りで大人しくしとけばいいものを、お前らは何と戦ってるんだw
多分多くの人は「便所の落書き如きに必死だな」としか思わないのではないでしょうか。
もし書籍化などをして便所の落書きから脱したときならば理解が得られると思います。
まず、作品の手法に対する解釈が決めつけに過ぎる点です
例えば
3、背景の地の文は一切小説内において役割を果たさない
これだと、漫画や映像作品の全否定なような気もしますが、それは置いておくとして、なぜその事実を「作品が事実である事を錯覚させようとする証左」と捉えるのでしょうか。
当然ですが、地の文を挿めば作品の分量はさらに倍増するでしょう。細やかな心理描写や大規模な戦闘と言った動きを描くのですからかなり高度な小説を書く技量が必要になります。掲示板のSSのような作品の場合、そのような手法が有効である事は携帯小説などが証明している事のように思いますし、私としてはそのような解釈の方が説得力を感じる訳ですが、どのような思考を経て筆者さんは地の文が無い事をそのように解釈したのでしょうか? ところどころにみられる衒学的な発言も相まって、それは着眼点の歪み、偏向、考察の欠落を「裸の王様」的に誤魔化しているように見えます。当然ですが誤った前提での議論は意味が無いように思います。
これも前提として「物語とはかくあるべきだ」という結論が断定的に用意されているように思うのですが、更にそのような態度だけではなく中身についても問題があるように思います。現実に着地することが問題にされないのが物語で現実に着地する事を想定、希望された物がイデオロギーなのですか? 例えばカラマーゾフの兄弟においてアレクセイに託されたキリスト教的愛を中心とした新しいロシアに対する希望は現実へ着地する事を想定されていなかったのでしょうか? どうも筆者さんはポストモダン的な文脈の「物語」と一般的な物語を混同しているように思われます。
とかく
ポストモダニズム的な着眼(価値の相対化、イデオロギーの否定)、手法(事実に対する複雑で直接的ではない分析)、性質(衒学的)が目立ち過ぎているように思うのですが、少なくともいろんな立場からの肯定的な意見を全て一様の方法論で否定するのは無理があるように思います。
いや、あの人たちは普段それらを踏まえた上で話をしていますよ。 というかそれらのはなしは、もう既に通過しているわけです。
他の記事でそれを踏まえた内容の記事も展開していますよ。
当たり前の話ですが、毎回1から丁寧に書いて誘導してくれる人なんて殆どいません。 普段からこの人たちの記事を読んでいれば理解できることではありますが、まおゆうの記事単体で見るとそこで書かれていることのみに焦点を絞ってしまいますから、こういうすれ違いが起きるのですね。
と言われても、通過した先でおんなじことをやってたら
やっぱりおんなじように突っ込まれるんじゃないの?
てか、それ単なる逆戻りやん
まおゆうはどうでもいいけど
“それを知っている”ことと“それを踏まえた”ことは別なんじゃ…
時間の無駄だった
「まおゆうをイデオロギーとして観ること」への批判ですね
話題性があるとは云え、あまた在るVIPスレSSの中の
一つにすぎないものに対する批評としては
あまりにも視点が狭いというか偏っているので
読んでる途中で「えっ?」と思わず声がでてしまいました
こんな記事が「まおゆう」でググると3,4番目に出てくる
んだから作者や純粋なファンには良い迷惑ですなw
書くんだろ?早く書けよ。続きをよ。
わしはアメリカ人が大好きそーな、本来敵であるはずの魔王さんとまさかまさかの協力プレイ!?的な物語としか受け止めてなかったのですわー
ここに来てから初めてイデオロギーだとか、現実の経済事情だとかを意識させられました。
というか、この物語を現実に受け止めようとする人がいはるんですね。いやいや、まことに恐ろしいことですね。
そのうちこの書籍化された本を持って「これが私の人生を変えてくれたバイブルです」って平気な顔して紹介する人間が出てくるのが怖いってことなんですよね?
いちいち難しい表現使われててわからんのですよー(笑)大学の先生みたい
批判するのはいいんですけどね、めっちゃ不愉快なりました
何が「自分は正しい」と自信をもたせたのでしょう?
そもそも、正しいってなんなのでしょう?
うp主さん断言してはって、自分の意見もってズッバズバ論挙げてはるからかっこいいと思いますけど、
断言してはる時点で間違いやと思うんです。
続く
みなさん論破しはるの好きなんはわかります。
ただね、現実には終わりは無いゆうてはるのと同じで、正解ないもんずーっとあーだこーだゆうてんちゃいます?
会議とかでも正解、不正解じゃなくて
意見のぶつかり合い、意見の妥協、意見の融合・・・・語学力ぜんぜんなんでうまいこといえないんですけど、こんな感じでまとめたりするじゃないですか?
いやいっちょ前にいろいろゆうて見ましたけど、結局後半はうp主さんのブログの感想なってないですね
なんというか、コメント含めこのページの現状を見てるだけですね。多分冷静に見れても無いですけどね(笑)
うp主さんって、書いてることは簡単に表現できそうなことなのにわざと難しく説明されてる気がしますし、自分の意見が一番だって上から言われてるみたいで不愉快ですし、何よりも、単純に物語として楽しんでる人が”いる”って言うことを忘れちゃうような人なんだなぁ。
賢いのはわかるんですけど、人としてこの人はちょっとなぁ・・・個人的には人として付き合いたくはないと思わせる文章でした。
ちがうんだ!とか、こいつ日本のくずだなって言われても、多分気持ち変わらないと思います。
文章を論破されても、気持ちって変わらんのですよ
犠牲を減らすために犠牲を強いることは確かに矛盾しているけど、志を持つ者と持たざる者のそれが等しいというなら、それは浅薄の言を弄する者であるといわざるをえない。
燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや。
あなたはは燕雀なりや、鴻鵠なりや?
頭いいと思ってる人はわざと難しい事をいって、分けわかんなくしている。
1・2読んだけど。
つまらない上に、読みにくい文章でした。
結局この批評自体が、あるイデオロギーに縛られている上で、
そのイデオロギーの正当化を喧伝したいがためにまおゆうを出汁に使って講釈たれてるとしか思えなかった。
物語ってのはストーリーをただ綴るだけでなく、その作品を通して作者が何かを語るものです。その内容は社会批判であったり、時には友情の大切さであったり、それぞれで違います。
ですが、作者に語るべきもののない物語は存在しません。どんな些細に思えることでも、語っているものです。社会風刺系の純文学とか、その典型でしょうに。読んだことありませんか?
現実の一部を作品に当てはめて、登場人物にそれを打破させるストーリーを作る、なんてものは過去から何度もとられてきた手法。最近のアニメとかだと、コードギアスとかもろその系統ですよね。
で、コードギアスを見た人は物語を現実と錯覚します? しませんよね。ただ、物語に含まれる『現実味』に考えさせられるだけです。
「まおゆう」もそこは全く変わりません。で、それのどこが問題なの?
「物語の内容が現実に起こるかどうか」と「物語で語りたい現実味」っていうのは似ているようで全く違います。
ファンタジーだと、現実に起こり得ないような話を綴っていると、そこで語りたい「現実でも通用する概念」が損なわれるのですか? 違うでしょう。同列に語るべきものじゃあない。
現実の要素を物語の中に持ってくるなんてものは大小は違え、どんな物語でもしていることじゃあないですか。
それに、物語なんてものは作者の考えを物語を通して示し、それを「考えさせた」時点で8割方は役目をはたしているんですよ。
その中でも社会派小説はイデオロギーを前面に出します。語りたいことが正しいように主張されているのは、考えされるのが大きな目的なんですから当然です。
むしろ主張がぶれてると「この作者は何が言いたいのか」って話でしょうに。
言わせてもらえば、「物語として間違っている」物語なんて存在しませんよ。
言いたいことを語りきれてなくて未熟だとか、うまく伝わってこない、なんてことはよくありますが、それは「物語としてうまくいってない」だけで「間違ってる」わけじゃあない。
物語って言うのはその名の通り「ものを語る」もんです。
主張に共感できないことや、ストーリーに不満があってもそれは「自分に合わない」だけで「物語としての意味」を否定する理由にはなりえませんよ。
まずSS内で正しい事が厳然として決められてるってとこだけどさ、一つの物語内(意見)でそれが定まってないと話がぶれまくって収拾が付かなくなるからあらかじめどのような切り口から物語を書くか決まってるのは当然だろ。
この批評だってまおゆうはは批判されるべきと決められた上で論を展開してる訳だけど、これにまおゆうを評価する意見を混ぜたら結局何が言いたいのか分からなくなるだろ。
更に地の文がない事に対して現実だと思い込ませるため・イデオロギーを隠すためだって決めつけてるけどさ、これVIPのSSなんだぜ?VIPの形式に則っている限り地の文が書かれる事はない訳で、それに対して考察し導かれた結論には根拠も説得力もないよ。あるのは自分の主張に都合が良い解釈だけ。往年のエヴァにも当てはまるが深読みしすぎ。
んであんたは
>物語を語る人たちは、それが小説であれ、あるいはマンガであれアニメであれ、「物語」がイデオロギー化しないようにするということにはものすごく神経をとがらせてきた
と主張してるが俺はそんな事無いと思うけど。むしろ全ての作品は絵画であれ音楽であれ文学であれ作者の感性、考えなどいわゆるイデオロギーが色濃く反映される物だと思うけどね。
あのアンパンマンでさえアンパンマン(善)がバイキンマン(悪)を懲らしめるという勧善懲悪物だし、イデオロギーが含まれていない作品があれば教えて欲しい位だ。
というか、この批評自体が、「まおゆうは批判されるべき」というあんたのイデオロギーじゃないのか?こうあるべきと定めているからな。
後半のトンデモ設定についてもVIPだから、作者にまとめ上げる力量がなかったからの一言で済むのに変な理屈付けてごちゃごちゃ決めつけんなよ。
で、一番気にくわないのはここからなんだけどなんでまおゆう読者全体を一部の狂信者に当てはめて批判するわけ?
何?彼らの「暴走」を止める?あんたの中ではまおゆう読者はフィクションと現実の区別も付かない基地外って事になってんの?
上から目線ですっげー苛つくんだけど。馬鹿にすんじゃねーよ。
って思いました。まおゆう読んできます。
称賛する人はまおゆうを「物語」として読んでいるからこそ、そこに現実らしさを取り込んだ面白みを感じ取れるのです。では、あなたは?
あなたの批判は、ドラえもん(DQ)のなかにコナン(経済だとかの話)が登場するTVスペシャルに、「ドラえもんはそうゆう作品じゃねーから!」と言ってるのと同じです。そういうコラボが見たかった、それが見れて良かった、という人にとっては失礼な批判だと思います。
言いかえれば、
?まおゆう思想に傾倒することは危険か、
?まおゆうという物語は面白いか
と分けることができたとしたら、あなたは?の話しかできていないのです。そして議論の対象となるまおゆう思想を、こうだ!と決めつけて議論しています。これ、小説ですよ?
これに対し、賛成派は物語の中にまおゆう思想があること、その視点が面白い、と言ってるのであって、まおゆう思想そのものが面白いと言ってはいません。称賛する人がアニメなど娯楽作品をひっぱって、あなたが嫌韓流をひっぱっていることからも明らかです。もう、議論のかみあわなさったらない。
このように、人の考え方はさまざまです。物語を読むのであれば積極的に楽しむべきだ、と考える人がいたり、物語はその根幹に流れる思想こそが重要だ、と考える人がいたり。
あなたは、本当に、絶対的な、凝り固まった考え方をしていないですか?
あなたは、本当に、頭がいいですか?
でも、ひるがえって見れば、こういう一方的なイデオロギーをすぐに真に受けちゃうっていうことは、それだけ追い詰められてるってことでもある気がする。
みんな大変なんだね。
大変そうというより、哀れだわ
まったくわからん
とりあえず、お前が気持ち悪い奴だってことは伝わった。
あ、確かにその通りだわ。ごめん、ごめん。
でも、やっぱりまおゆうってダメ作じゃね? 何でそんなに好きなの?
既にイデオロギーに対するアレルギーでしかないって事に気づいてないよね。
イデオロギーだろうと何だろうと、全ての可能性を含む事が出来るものが物語だ。
それが物語の大前提でかつ無慈悲な事実であり、そこにイデオロギーを含めるべきか否かは
作者が判断するだけの問題で批判材料にはなりえない。
「あるイデオロギーを含んだ物語だ」
ここまでは客観的な批評だと言える。そのイデオロギーで正しいのかという論点は残るが、
事実を事実のままに表現、少なくともそう努力しようとはしている。
「こんなイデオロギーが含まれているからいけない」
「イデオロギーは物語に含まれるべきではない」
ここらへんは単なる主観だ。あるいは一つの個人的な主張だ。
これを客観性だと言い張る事は詐欺と一緒だ。
>>物語を語る人たちは、それが小説であれ、あるいはマンガであれアニメであれ、「物語」がイデオロギー化しないようにするということにはものすごく神経をとがらせてきた
とか完全な思い込み。ありもしない事をさも一般的な事実のように話すとかありえん。
ガイドラインとして紹介されるレベルの詭弁を使うなよ。笑えるだろうが。
そういう人間もいただろう事は当然どんな人間でもいるのだからデータが無くても認められるが、
そういう人間が大多数のような言い方は止めろ。
この一文だけで文章以前の問題として著者の人間性に説得力が無い。
論を書く人間として致命的ですよ。
主観なら主観らしくこうあるべきでないと俺は考えると主張しやがれ。
私達の報道は平等ですと言い張るマスコミみたいな事をするな。
そもそも、
そういう派じゃないやつは、元から嫌いって言ってるやつにわざわざ噛み付かない。
結局噛み付いてるやつだけが目立つから、全員がそう見えるだけ。
ファンが多ければ一定人数そんなやつが出てくるのは当たり前だし、分母が多ければそれ分増えるのは当然だろ。
まぁ文調見る限り釣りだろうけどな
この話を批評されたら我慢ならんって奴らはどれだけ楽しみが少ないのさ。
こういう長々とした批評に対抗したいなら同じ長さで絶賛分析でもどこかで書きなさい(^ω^)
なに?主はこのファンタジーの物語に現実を見ちゃったの?
あとどうして「批判されるべき」って断言しちゃえるの?言論の自由は死んだ?決め付けるあなたの思想のが危険じゃなぁい?
まおゆうに対して感想やらなんやらしてる読んだ人たちに対する批判じゃん
タイトルに偽りありっていうか・・・
その通りだね。
そもそも独善的な物語が〜とか言ってるけど、主張の無い物語(テクスト論的な解釈の余地さえない物語)って何だろね?そんなのあるの?意味不明なただのノイズかな?
強く感じたのはこの記事が「主張者の属性に関する印象論」が多いってことかな。しかも持って回ったような言い方で。「馬鹿にしてるみたいだけどそういうことする人に限って…」とかいう言い方。そもそも議論上不要な記述であるしね。こういうこと言っちゃうタイプって無意識にポジショントークしちゃう上に主張のリスクも取れないお粗末な人が多くて、きっと「人見知りだし打たれ弱い」タイプなんだろうなーとか思ってたら自己紹介にはっきり書いてあるしw 正直なとこだけ好感持てるよねwほんとそこだけw
あとネオリベがどうとか言っちゃって、恥ずかしいなあ。「傍ら痛し」ってやつ?お前の頭の中何年前で止まってんだよw って感じ。正義準則に基づく自由と機会平等の止揚とか勉強しなよ。分かるよ、極論と揶揄される少数派が何故議論の俎上によく挙がるのか、理解できないタイプなんだよね。でもあなたはレッテリングと分類学やってるだけであることに早く気づかないと、「ちょっと博識気取っちゃったけど実はなにも分かってない痛々しいなんちゃって価値相対主義」を永久に超えられないよ。
「これだけ考えましたえっへん!」
「あうあうあー、それはただ学説の整理をしただけだよね。それで論文になると思ってるの?世界に寄与できる君の知的生産物はいったい何?あばばば^p^」
いや、よく嫌なら見るなとか言う人いるけどさ。
わざわざこんなタイトルにしなくても、相手に気を使った上での批判は必要だと思うけどなー。
批判って言葉になんか悪いイメージを持ってる人が多くて嫌になるよ。
心の温まる議論がしたいよ。
「まおゆうはなぜ批評されるのか」では注目を集められなかったと思う。
その点に限って言えば、いいエントリ名だったと思うよ。
中身は文学に対する批評というよりはまおゆうの名を借りた
思想家たちのやり取りの話だったけれど。
興味がある。
読んでみたい。
批評とかカッコぶった駄文よんじゃった。
視野と料簡の狭さがスバラシイです。
この人単に議論したいだけじゃない?
「なんだかウソくせー感じするなあ」と思ってしまった、あの感じを、きっちり分析して言語化するとこうなるんですね。
あ、でも、初めの対話だけで読む気を無くしたので、1スレ読みきったら印象変わったのだろうか。それにしてもこの対話は酷いです。勇者のリアクションがダメすぎて。なんで言いくるめられてるんだ、こいつ。
つまり趣味の範疇で書かれたものに、そんなものを
求めるのはねぇ。
それと、
筆者も文章書いてるなら批評は最後までしっかり読んで書くといい。
最初の1スレ目から穿った見方をしているように思える。
あと最後に、しっかり改行してくれ。見づらい。
この記事は長々と回りくどく書いてて結局主が何を言いたいのかほとんどわからない。
そんなバカな俺だから言えることがあるわ(´・ω・`)
主は読み手に理解させる力が無い。今の政治家と同じでgdgdでダルい。途中で飽きて飛ばし飛ばしに読んだから理解できなかっただけだろうけどね
「物語」ではありえないと思います!
「俺はまおゆうは啓蒙思想だと思うんだ。そして下手にまおゆうが賞賛されて世界革命が起きたらやばくねー?俺はやだな!」
って言うことをなぜここまでややこしく言えるんだw
とりあえず、まおゆうの記述形式は2chの新ジャンル系やらにも良く見られること。
そもそも2chの落書きで構想もどこまで固まってたかわからない内容に、そんな厳格なルール押し付けても仕方ないと思うよ。
思想については作者本人に確認とらなきゃわからんだろ。
そういう傾向が見られるからって決め付けたら「あなたはナイフを所持しているから、犯罪者予備軍」って言うのと同じよ?
どこまで読み込んでもまおゆうは起承転結で書かれた、ただのストーリーにすぎんよ。
物語の主題なんだから「丘の向こう」が肯定的に描かれるのは当たり前。
それを受けて主が思想がどう、って言いたいんだろうけど話の幹の部分なんだからそれについて疑問持つ様なら単純に「主に合ってなかった」ってだけだろう。
狂信的な人が色々言っても別に気にする必要は無いし、危機意識もいらん。
大多数の読者は「面白かったー」or「つまんなかったー」くらいの感想にしかならんよ。
批判する以前に他人が理解出来る文章を書けない時点で、貴方は自己愛の強い、ただの自己満野郎です。
日本語を話せよwww
現実と物語を混同するバカなんざいませんよ。そんな心配しているのは貴方くらいです。
人気作に対する僻み根性が見え見えです。
ちょっと元ネタの方が読みやすいくらいです。頑張ってください。
前投稿を自分なりに読切りました。続きがあるということですが、読破出来そうにありません。
勝手ながら、前投稿を拝見しての感想・コメントをさせて頂きます。
趣味で小説を執筆なさってるようで、それはすばらしいと思いました。
ですが残念ながら、きっとあなたの小説はおもしろくないでしょう。
私などが偉そうに言えた義理ではありませんが、文章全体の組み立てが自分勝手過ぎて、読むのが非常に苦痛でした。
私が理解できないせいもあるのですが、あなたが「まおゆう」を読んで、どのように思い・受け取ったのか。理解するのに少し時間を要しました。
結局のところ、否定的な意見をお持ちなようですね。 それは一読者の意見なので一向に構わないと思うのですが、自分と反する意見・思想を難解な文章を用いて批判し、「俺は違うんだ。」「俺こそ本質を見抜いている。」と主張している。 ただそれだけの為の長文であり批判である、と私は受けとりました。
もっと大局的な、むしろもっと飛躍した理論や思想など、そういった「読み物」が読めると期待していたのですが、単なる批判・批難、自己顕示欲にかられただけの薄っぺらい理屈。
ほんとうに書くこと・読むことが好きな方なのでしょうか? 「物語」にタブーはない・・・と私は思いますが。
「物語とはこうでなければならない!」と声高に叫んでおられますが、あなたのような考え方ではきっと「おもしろいもの」は書けないと私は思うのです。
批難ばかりで申し訳ありません。ですが読むと、ものすごい「悪意」を感じてしまって、批判せずには居られなかったのです。
何かもう一歩踏み込んで(理屈をコネるだけでなく)もっと飛躍・展開すれば、読み応えのある文章が書けたのかも、と残念にも思います。
これからも執筆活動がんばってください。
長文・乱筆失礼いたしました。
別にそれだけの話じゃない?
面白くないから面白いという人を批判するのはどうかと・・・
単に『読み物』として面白いなと感じてたんだけどさ。
それを批判してると言うから見に来れば、
くどくど理屈っぽく語られて正直一気に冷めた。
むしろ、そこまで何もかもを考えないと物語書いちゃいけないのか?
理屈だけ先行して『アレがいけないコレがいけない』言い続けるなら、
引き込まれる物語一本貴方の理念使って書いてくれ。
正直、理屈っぽさに辟易して斜め読みしたんで貴方の語る理屈使ったらどんな物語になるのか知りたい。
10年ほど前に、アリとキリギリスの話に基づいた物語形式の啓蒙書『チーズはどこへ消えた?』と、
それとは真逆の価値観を示したパロディ本『バターはどこへ溶けた?』が出てきた時点で
こういう論争は済んだものだと思っていた。
物語を啓蒙のダシにしたような小説が好きではないってところは同感。
煽るようになってしまうが、この言葉を贈ろうと思う。
たぶん古い記事なのでこのコメントが読まれる可能性は低いと思うが。
「嘘を嘘と見抜けないと難しい」
文章の形式云々については上で多くの人が言っているとおり、vipのSSスレではよくあるもの。
私はあなたの言うところの「エンターテイメント派」(ただし宣伝とかしたわけでもなんでもなく、読んで「イイハナシダナー」と思った程度)だが、あなた方の仲間に入れられていたのは違和感を感じた。もっと言うと不快であったし、おかしいとも思った。
なぜか。あなた方はこれをかなり思想的・学問的に読んでいらっしゃるが、「エンターテイメント派」はそのような読み方をしていないからだ。
賢明なあなたならお気づきであろう。そのような観点からではなく、「vipのSSとして楽しんだ」人間からすれば、そのような論争に巻き込まれること自体煩わしく欝陶しい。
プロパガンダに使われたからと言って、その作品の「エンターテイメントとしての価値」が下がるのか、「芸術として」良くないとされるのか。
例えば「ゲルニカ」や「イマジン」もある種イデオロギー色の強い作品だと思うが、あなたはこれらを芸術・エンターテイメントとして楽しんでいる人に「『美しい』とか『いい曲だ』で批評が終わっていいのか」と問いかけられるのか?
そもそも「エンターテイメント派」は批評をしようとはしているまい。それが「批評家」の一派になっているのはおかしいだろう。
つまり「勝手にやってろ、こっちくんな」ということである。
まぁネット上においては本来「嫌なら見るな」となるわけだが、自分が批判されているなら反論をする権利はあろう、と思ってこのように書いた。
あとは「現実に見せかけている」のに「トンデモ設定」があったら台無しではないか?という点に矛盾を感じた。
ちなみに上でも指摘されているが、あなたの言う「トンデモ設定」はドラクエシリーズのパロディらしい。というより、この物語の世界観の基本はドラクエシリーズをモデルにしているようだ。
別にファンタジー(特にハイファンタジー)としてそこまでぶっ飛んだものではないと思うがいかがか。
大体スレタイの最初「魔王」を読んだ時点で、「現実」と思う人間はどうかしている……と私は思うのだが。
そういった人間への批判であるなら同意する。が、それは作品への批判とは異なる。
「痛い信者」がどれだけ騒いだところで、そのことをもって大元の作品を「批判されるべき」と言うのはどうかと思う。
得るところは多々あったし、部分的には賛同するところ(各派への批判とか)もあるが、全体としては賛成できない。
以上は真面目な話である。以下は不真面目な感想である。クッソ汚いネタですのでご注意。
「お前初めてかvipは、力抜けよ(迫真)」
「 お前が書けよ!(棒読み) うまいんだろー?(棒読み) ほら書けよ(棒読み)」
なんだか申し訳ないが、この手のネタは便利なのです。茶化してかつ言いたいことは言えるのでw
いろいろ考える契機を提供してくださったことに対して感謝を。
面白くなきゃ読まなきゃいいのにwww
どんな事を言ってくれるか楽しみにしていたのだが。
何で批判される「べき」なのか結局わからなかったな。
ていうかこの作品で検索するとこれが三番目くらいに出てきて目障りだね。
作者に拠って独善的に用意された舞台装置とどうみても偏ったキャラクター構成やら
安っぽい屁理屈に拠って補強された内容なのにそれに気づかずに、もしくは穿った見方をすれば
現実世界の未熟な自分がその屁理屈で慰められるがゆえに、エンターテイメントとして面白いと
受け入れてしまう人々に危うさを感じざるを得ないって事だと個人的に思いました。
僕はその通りだと思います。
記念かきこ
正直残念だ。
一見して作品の本質を暴いてそこに一撃を入れているのかと思いきや
枝葉のところをつっこむばかりで、最終的になにがいいたいのかが
ぼけてしまっている。おまけに批判の対象さえしぼりこめてないのか
長々とあれがこうでだからこーでと言い訳が続くのでは
これだけコメントが荒れても仕方ない。もっとまおゆうスゲーという
連中を真っ逆さまに突き落とすような、かいしんのいちげき ともいえる
批判を求めたい。
知性と勇気、高潔な魂を兼ね備えた生物はここまで同時に存在できないよ
要職につく人間がほとんどそうであるし
なんとか学、を学びさえすれば世界を変えられるかのような展開もどうかと思う
これを読んで学んだつもりになった程度では、絶望しか待っていない現実を味わうことになる
現実社会はもっと低俗なもので構成されているので
無意識に「これはねーよ」って感じる人が多いんじゃないかな
リアリティを追求して面白くなくなったゲームに似ている
当然それが面白い、と思う人もいるだろうが
懐古厨から言わせてもらうと
「現実とゲーム、どちらも貶めている」わけ。
人はゲームを必要としたからゲームを作った。
なのになぜゲームらしくないゲームにしていく必要があるのだろう?
序盤はFF6みたいな絶妙のバランスだったけど
中盤あたりからはもうスクエニ臭しかしなくなった、ってな感じ・・・
まぁ個人的には全力で批判するほどでもないけど良いとはいえない、そんなレベルかな
書いた当初はただの匿名ユーザーに多くを求めすぎ
直木賞や芥川賞とった人、
どっかの社説書いてる人とかに対してならわかるが話を大きくしすぎ
肯定派のそれも気持ち悪いが
否定派の必死ぶりも気持ちが悪い
ファンタジー、戦争もの、群像劇、萌え、これらが好きなら楽しめると思う。
これはファンタジーであって現実じゃない。
だから純粋にエンターテイメントとして楽しめばいいと思うんだけど、
これを現実と混同してしまう教養のない人もそこそこいるみたい。
そうなると、まおゆうの啓蒙性を批判をするブログ主のような人も出てくる。
仕方のないことだとは思うけど、物語は現実と切り離して楽しんで欲しいなと思う。
物語の役割って、独善的で嘘八百の屁理屈を並べて人に一時の楽しみを与えることでしょう。
それだけが物語の幸福であって正義だと思うから。
物語を現実と切り離して楽しむのってどっちもつまらんと思うんだけど。
教養あるのかどうか知らないけど、なんだかなぁ・・・
少なくとも教養の無い人とか自信もって言い放つ人は教養ないと自分は思うんだ
作品の批判超えて人格批判するほうがよほど現実と混同してるしw
お話はお話です。現実と混同するのは妄想と現実の区別のつけ方を躾けられていない子供の言い訳です。
二項対立を批判しておきながらイデオロギーかそうでないかのミスディレクションもどうかと思いますし、多くの人が楽しんでるという現実を無視しすぎです。
議論をしていることで、(間接的に)あなたもまおゆうを楽しんでいるのです。
(少なくとも議論をするぐらいの)価値がある作品と認めるところから始めてはいかがでしょうか?
イデオロギーという意味では、歌は現実を変えられなかった。(イマジン)
映画も現実を打倒できなかった。(華氏911)
この小説に現実を変える力があるというのなら、逆に見てみたいです。
そんな影響など、起こりえないので取るに足らない
全ての集団においてイデオロギーは存在します
それらを互いに正面衝突しなくてもいいように努力しお互いに理解し合えるよりよい世界を目指していこうというのがひとつのまおゆうの結論だと思います
ハリポタでも思ったのですが長すぎです。
手塚治虫ならメトロポリスのように一冊で納めるのに。
まおゆうもハリポタも、話を長くすることで駄作化し、惰性の儲けを出しているということが批判できる。
皮肉にも、惰性の商業悪を経済家ヒロインが証明しているのだ。
しかしネラーとしてssを読むなら萌え要素とモテモテ童貞勇者と巨乳魔王、貧乳女剣士と設定だけで、充分だ。
精霊の選択云々だとか、よくあるパターンで、神とかの作為や誘導なんかもそうである。
過去にジャンプで連載してた仙界伝封神演義とか、藤田まぐろなんかが短編でやる感じ。
しかしそれでいいの。
しょせんファンタジーの粋を出ない。
現代に置き換えるアホ相手に読む気持ちもなければ、人にも薦めないな。
私にはデスノもコードギアすもハガレンもワンピースもまおゆうも上記の集英社2作品も、どれも駄作。
上記はただの暇潰しに読める程度の物だが、暇潰しでもましな作品を読みたいものだ。
ちなみに魔王と勇者のssは魔王「来ちゃった」のように1スレでまとめるべきだ。
ワンピースは一冊、ハガレンも一冊でまで。
金太郎や竹取物語がなん十冊もかかる長編物語だったらうんざりする。
聖書だって無駄を省いて一冊にまとめているから世界中で読まれている。
長編は一話で終わるタイプのドラえもんやブラックジャックで充分だ。
あるいはギリシャ神話やヒンドゥーの叙事詩みたいに、それぞれ個人のエピソードを短くまとめて編纂してほしいね。
作中でも農奴が無産階級だかプレカリアートになっただけだしさ
でもいいじゃん、Toi8さんの絵はかわいいし、まおゆうはフィクションだし、楽しめた者勝ちでしょ
(よそう、ファンタジー世界なのに待ってる結末が人口爆発と資源枯渇で世界大戦かディストピア化しかないなんて、俺の予感だけでみんなを混乱させたくない)
作中でも農奴が無産階級だかプレカリアートになっただけだしさ
でもいいじゃん
、Toi8さんの絵はかわいいし、まおゆうはフィクションだし、楽しめた者勝ちでしょ
(よそう、ファンタジー世界なのに待ってる結末が人口爆発と資源枯渇で世界大戦かディストピア化しかないなんて、俺の予感だけでみんなを混乱させたくない)
冗談はこの程度にしておいて、橙乃ままれは森鴎外みたいな啓蒙文筆家じゃないんで意味ない反論ですよ
そもそも、まおゆうが色々言われるのも突っ込み所がいっぱいだからでしょ
ネット小説が発祥だから、いくらでも脳内で自分の好きな妄想に浸れるってのがポイントで、
そりゃなんでもおかしいだろって思想、経済論も、読者が幾らでも都合のいい解釈と妄想でニヨニヨできる
まあ、大方のラノベのキャラ萌えなんてそんなものでしょ、
経済の話をするなら、イギリスの産業革命だの、ロシアの農奴解放だの、列強の植民地支配だのの問題点をすっ飛ばして、新自由主義経済の話になってるからそもそも論ずる意味がないわな
ネオリベが否定されるのは、労働力にも資源にも環境にも限りがあるのに無限の未来があるって馬鹿な事言ってる点と根幹を実体の無い金融資本が居座ってる点かねー
でもその話はまおゆうと次元の違いすぎる話だし
フィクションと経済学、経営学をすり合わせるの大変だよね、ドラッカーも狼と香辛料も売れたのが不思議なくらいだよ、ドラッカーはアニメも小説も内容は噴飯ものだったけど、天下のNHKさまで放映ですからw
聖書は本を大きくして文字を小さくして紙を薄くして一冊の本に纏めたのです
でも、それを以て「批判されるべき」とは思わないな。新自由主義だって全てが間違っていたわけでもないだろうに。
この記事書かれた意味十分すぎるほどあったねw
でも、そういったものを掛け合わせて新しいスタイルを作るのは才能というのも事実。
現実を記号化した民話などを元にした小説や映画を、さらに真似て作ったゲームをネット上でパロディ化したものに突っ込むのは野暮だろう。
これだけ支持者がいるということは、現役の作家が読者の要求に答えられる物語を作り出せてない証拠だし。
ただ、商業ベースに乗せるなら作者は自分の言葉に責任を持つべき。
私の経験則からいうと、経験したことのない人生訓を垂れ流すような奴は信用できないし、感動も出来ない。
上手くいえないがこの作者は、人の死や社会と人間の関係について深く考えたことが無いように読めるんだよね。
なんというか、アニメの名セリフや教科書の語句は知っているけど、なぜその作者たちがその言葉を作らなければならなかったのかまでは考察していないという感じ。
まあ、走り読みだから間違えてたらあやまるけどさ。
俺があえて上に付け加えたいのは「統計に基づく事実」という言葉について。
統計というか、その過程で集まったデータの一つ一つは確かに事実だろうが、それを分析して世の中がどうなってるのかという形にまとめる段階ではどうしても主観が入ってしまうので事実とは言い切れないはずなのだが。
まあ原作は原作で「まおー様どうやってそのデータ集めたの?」というツッコミを入れたくてしょうがないのだが
作者の思想が出すぎて気持ち悪いというか
勿体無い物語に触れる事がたまにあります
個人の矮小なイデオロギーと離れて
読者に想像や解釈の余地がある話を作るには
どうすれば良いか悩んでいたんですが
この記事を読んで納得しました
どんな物語も作者の独善的な空想でしかない
という謙虚な姿勢が重要であって
独善的に伝えて良いのはフィクションだけで
現実を独善的に表現してはいけない
というある意味当然の事を再確認出来ました
イデオロギー(思想)と物語と、プロパガンダ(宣伝)が見事にゴッチャになってるし、ナチズムが単なる「ゲルマンスゲー、ユダヤ殺せ」ってイデオロギーにすりかわってるわ。
「桃太郎 海の神兵」が物語を現実に適用?
そりゃプロパガンダって言うんだが、それを言ったら「ドナルドダック」や「ポパイ」「スーパーマン」だって日本相手に戦ってるんだが、これって、普通の人間は物語の現実に適用なんてアホなこと言わず、プロパガンダって言うんだが。
ナチズムの本質は国粋主義、古き強いドイツの復活であり、それ故に第三帝国を名乗ったんだが、「ユダヤ殺せ」ってイデオロギーな訳無いだろ。
あんたの意見なら、イデオロギーのプロパガンダの手段として物語を利用した。
という理屈なのだろうが、まおゆうにおいては結末が曖昧で、誰が絶対正しいと結論付けてないんだからプロパガンダとして成立しない。
むしろ、あんたが「物語」という「蟻とキリギリス」の方が資本主義のイデオロギーのプロパガンダに適用出来るんだが?
決まった流れってのがイデオロギー(思想)に都合よく物語上働き者蟻が豊かになり、キリギリスは死んでしまいました。って見事な資本主義のプロパガンダとしての物語が成立してんだが、書いてて気付かないの?
>だから「物語」は「現実」たり得ることは出来ない。ところが人はそれでも「現実」を「物語」の様に受け入れたかった。なぜならひとは「決まった流れ」に基づいて考えた方が楽だからです。そして生まれたのが「物語」の亜種、「イデオロギー」なのです。
物語の亜種が「イデオロギー」ってプロパガンダと物語の関係の区別がつかず、そんな愉快な着陸点を見出だしたのが受ける(笑)
イデオロギーとは、思想であり考え方なんだが、現実にありそうなと思わせる物語がイデオロギーってなにそれ?
この批評の最大の笑い所は、イデオロギーを主張しながら、まおゆうがどんなイデオロギー(思想)を主張しているのか全く無い所だ。
現実にありそうだ。と思わせる物語はイデオロギーでは無くプロパガンダ。
この一例として、
共産党と中国の自己正当化と、日本軍悪玉論というイデオロギーの主張の為、731部隊と言う現実の部隊が、あり得ない程の人体実験をした。という「悪魔の飽食」という小説(物語)を、さも実際にあったかのようにプロパガンダ(宣伝)として利用した。
この事例から、現実に物語を重ねるのはプロパガンダであることがわかる。
この批評者はプロパガンダの部分をイデオロギーと主張し、そうならないのが物語って勘違いを延々主張
まおゆうがイデオロギーと言うなら、その根底どんな訴えたい思想があったかを、はっきりさせなければならないが、物語をイデオロギーの亜種等と勘違いしたせいで、プロパガンダをイデオロギーと主張し、そこで止まって満足してるだけ。
ちょっと難しい言葉覚えた子供が、その言葉の使い方も知らないのに、「難しい言葉覚えた俺はスゲー」って喜んでるのがこの批評者
という謙虚な姿勢が重要であって
独善的に伝えて良いのはフィクションだけで
現実を独善的に表現してはいけない
というある意味当然の事を再確認出来ました
記事読みました
あぁ、アホに感化されるとこうなるって典型だね。
そっかー
「悪魔の飽食」あたりじゃ笑い話だけど
名作には強烈なイデオロギーを記す作品も沢山あるんだけどね♪
「レ・ミゼラブル」なんて、フランス革命マンセー
コゼットの恋人さんはブルジョワで、犯罪者に育てられたコゼットに、結婚に至る筋は美しきかな、ブルジョワとプロレアリアートの結び付き♪
うわっ、作者の独善って気持ち悪い位露骨
次は日本の名作
「坂の上の雲」
日本陸軍でいじめられた司馬が私怨で書いた小説
日本陸軍の象徴として乃木を批判してるけど、世界はボーマン式城郭と、塹壕を複合したWW1で膠着し、大量の人命を飲み込んだ、戦車が出来るまで最強を誇った陣相手に僅か半年で攻略した乃木を、必要以上に貶める司馬の名作は
>どんな物語も作者の独善的な空想でしかない
という謙虚な姿勢が重要であって
独善的に伝えて良いのはフィクションだけで
現実を独善的に表現してはいけない
まんま貴方が言う独善以外の何ものでもないんだが
貴方は「レ・ミゼラブル」「坂の上の雲」は名作では無いのかな?
シナリオライター?
無理じゃね?
「アンクルトムの小屋」
に公民権運動につながる独善的イデオロギーを感じないか?
「アンクルトムの小屋」は事実を独善的に評していないか?
最初に言っとくが公民権運動が間違いとは思っていない。
それは私のイデオロギーと一致するからね。
ただ、貴方はイデオロギーが悪なのだろ?
なら、「アンクルトムの小屋」は事実として、公民権運動につながるイデオロギーを発してる「アンクルトムの小屋」は悪なんだよね?
>現実の独善を伝えていいのはフィクションだけ
だっけ?
当時のアンクルトムの小屋の時代は、あの作品より更に酷いんだけど、現実より軽い表現だからフィクションとでも言いたいのかな?
先に上げた作品を見ても解るように、強烈なイデオロギー、他者を転向させる程の表現、それらが正しいか、間違いかは別にして、作者の強烈な意志があって、初めて名作たる物が完成する、と私は思ってる。
翻って「まおゆう」にそこまで強烈な意志がどこにあるのか教えて欲しい。
その意味では「まおゆう」は文学ではなく「ラノベ」を戯曲風に書き換え、あまり馴染みのない経済を取り入れただけの作品に過ぎないんだけどね。
面白くはあったけど「銀河英雄伝説」ほどの衝撃は無かった。
>ですから、物語を語る人たちは、それが小説であれ、あるいはマンガであれアニメであれ、
>「物語」がイデオロギー化しないようにするということにはものすごく神経をとがらせてきたわけです。
>つまり、「これを現実と勘違いするな!」と。むしろ現実と全く別個なものだからこそ、
>物語は「現実にはないもの」を映し出せるんだという観点の元、物語は語られてきたのです。
ひどい飛躍ですね。
まおゆうがイデオロギーを演出するものだとして、現実の軍隊や権力を後ろ盾にして発せられたものではもちろんありません。
歴史上のそういったイデオロギーと単にネットでかかれた物語を同じものとしてとらえるのは無理があります。
まおゆうにそういった要素はあるかもしれません。しかし作者の意見や思想が見えない物語なんて、個人的にとってもつまらないです
現実の様にみせかけ主張し、イデオロギー的要素がある。だから?
その意見に背くと殴られるんですか?捕えられるんですか?
批判記事はがまおゆうをイデオロギーであると仮定し、イデオロギーは悪だよ、だからまおゆうも悪だよってことを長々ともったいぶってかいてあるだけです。
まおゆうには、イデオロギーというか作者の意向が方向性をもって書いてあります。作者なりの答えもそれなりに書いてあるでしょう。なにが悪いんですか?
この記事によると戯曲形式で現実だと錯覚させているそうですが、というよりテンポがよくて密度が高いですよ。現実だと思う人がここに何人いますか?
ほんとの駄作はだれも読んでから話をしないでしょう。好きな人、嫌いな人いると思います。当たり前ですよね、いろんな読み手、受け手がいるんですから。この人が考えるような単一な読み手、受け手ではないですよね?
別にレコード会社や出版社が圧力かけたり広告費つんで広めたものではないわけです。それで話題になってるんですから、それなりにいいもんですよ?好きか嫌いはおのおので決めて下さい。物語ですからw
私自身は、面白ければOKな人なので。
「魔王のおっぱいさいこー」
で見れる人を否定はしないんですよね。
個人的には、経済学部卒として
「まおゆうは経済学の教本なる」
って言ってる人には
「じゃあ、それを片手に講義してよ」
って言いたくなりますね。
経済学は魔法の便利ツールじゃないのよって。
”「まおゆうにはまるとやばい。」だから批評すべき”
”物語の構成がうまくないから面白くない。”
ということ。
それで、筆者は批評として、はまるとやばい点を示している。
その批評が的を得たものであることで、批評すべきということを示そうとしていると予想される。
「はまる」っていうのは、読者がまおゆうを現実に完璧に適用できる知識と考えること。
「やばい」っていうのは2点あって下記であること
・内容
・はまりやすい
内容を説明している。
・イデオロギー(新自由主義だから。啓蒙主義だから。)
・二重拘束
はまりやすい理由ものべている
・地の文がなくて、作者の意図が見えにくいので自然な流れと感じるから。
・ドラクエの設定を採用してて、受け入れやすいから。
・地理、風土、民族、その配置の地政学の関係から、自然な流れと感じるから。
・現実に適用できてる科学(経済学、土木、工学)を使ってて、現実に適用できそうだから。
・萌えだから。
批評については、下記3点の反論で妥当ではないと思う。
・イデオロギーが危険で、物語がイデオロギーを押し付ける可能性があるのはなのはまおゆうに限ったことではない。
・はまりやすいという点は、悪いことではなくて、まおゆうが面白いということでよいことだと思います。
・「(イデオロギー)やばい」というマイナスをつかって、「はまる」っていうことをマイナスにして、まおゆう全体をマイナスにみせるという詐術を使っている。また、まおゆうのはまり力の大きさで増幅もしている。ずるい。
まおゆうは適度に複雑な物語構成と、文章の技と、現実の歴史と科学とドラクエの事柄を詰め込んで、面白い小説だと思います。だから批評すべきだと思います。
また、王弟元帥がマスケット集団戦術を思い浮かばなかったら?という予想とその後を予想したコメントはすごい。
現実では「あの丘の向こう」、そんなものなどないんだよ、そりゃだれでも知ってる
でもまおゆうではそれがあるものとして語られてる、そこが最大のファンタジーなんだな
アンチファンタジーの皮をかぶってるが、最後はファンタジーに落ち着く、そこがまおゆうの笑えるところなんでしょう
うみねこのなく頃にが推理物の皮をかぶってるアンチ推理物な様に
まどかが便利な魔法を否定しておきながら最後に奇跡を持ってくる様に
王道を否定しておきながら王道脱却を否定しない、ファンタジー部分をのこして送ってのがうまいんだよね
まあ最近は、商業主義に走り過ぎなんで作者自体が受け付けなくなったけどさ
でもまおゆう、アニメ二期はなさそうなんだよなー
ログホラは議論の種にもなら無さそうだし
おもしろくないなら見なければいいじゃないですか。
以上。
本当の史実を交えつつも、あれはあくまで創作物語で(だから龍馬ではなく竜馬)
また、物語がイデオロギー化されており、あなたの言う二項対立という図式は
大政奉還というキーワードで存在する。
そもそも二項対立は、「A」の時点から選択出来る「B」と「C」が矛盾し対立していることで、
その前提は「D」や「E」がある中で「BとCを共に選択する」場合に矛盾が生じるというものです。
あなたの言う「今まで」と「今までではないもの」を選択することは入りません。
無理矢理に当てはめているようですが「A」と「A以外」の選択、その場合は
第三の選択がありえないからです。
このページしか読んでいませんが、あなたは本当に創作者ですか?
それとも、その辺に沢山いる十把一からげなコメンテーターですか?
上から目線で持論振りかざしてれば楽ですよね^^頭悪そうに見えるのが難ですけど。
いやースッキリした
けどまおゆう系の話に心酔してしまう人が多いというのも、頭の痛い問題ですな
子供かな?
まおゆう持って講義するくらいわけはないんじゃないかな?
批判される”べき”なんて書いてるから、どんな鋭い切り口かと思えば、ただの世間知らず。
勝手な解釈による上から目線と、がんばって難しいことを言おうとしてか、読み難い且つ長い
そして何より、批判が的外れで全然面白くない。現実と勘違いする人なんて極々少数でしょうに
主さんには申し訳ありませんでした。
まおゆうも元は便所の落書きであるように、あなたのブログもただの自己満足の捌け口なのに、期待しすぎました
この主さんはイデオロギーという言葉の意味をちゃんと理解せずに背伸びして使っているだけなので、
あまり突っ込むのは可哀相ですよ。理解してたらこんな文書けません
なんだかあまりな文章なので『まずはどんな人が書いてるのかプロフィールチェック!』となりました。
http://www.darakeru.com/profile1/
https://ja-jp.facebook.com/public/%E5%B0%8F%E6%9D%89-%E5%A4%AA%E4%B8%80
https://www.facebook.com/ktaichirou
http://mixi.jp/show_profile.pl?id=20053676
この人自身の公開してるプロフィール(とくにfacebookのお気に入り末尾の"その他"を全件表示)をうかがうと
なんと申し上げますか、思想的がだいぶ偏った方に思われます。モロに社民党関係者の親族なのかというくらいに。
あと気になったのはお写真のご尊顔ですね。
毛沢東と自分を並べて赤星帽子で得意気に写ってる写真とか、facebookの表情には
なんというか、精神においてある種独特の発達を遂げられた方独自の境地というか・・・オーラを感じます。
率直に申し上げて、立教の院を中退されてコンビニや郵便仕分け、警備員等のバイトで職を探し中、
今年28歳の青年というより、年齢詐称で逆鯖読んでる"大変知能の高い小学生"のような雰囲気というか。。。
プロフィールとご尊顔を確認されてから、この方(小杉太一郎さん)の文章を読むかどうか決められても遅くないかと。
もちろん全部、『あくまでいい意味で!』と捉えていただければ幸いです。
頭に問題のある人が、自信満々に思い込みの強い内容を滔々と垂れ流してる”だけ”ってのは
プロフィール写真のアレなツラを見たら一発で得心がいった。
まおゆう検索の上位にこんなゴミページに飛ばされてマジで腹立つ。
ポパイが日本と戦ったのは昔の話であって、今の敵は日本じゃないから問題ないです
仮に今でもドナルドダックが日本兵と戦ってたら、それは悪質なプロパガンダです
あと怠け者が不幸になって働き者が幸福を掴むのは共産主義の世界でも当然ですから
「蟻とキリギリス」は資本主義のプロパガンダ作品じゃありません
レ・ミゼラブルは貧しい労働者に高く評価されましたが貴族からは批判されてましたし
坂の上の雲も現代の右翼というか旧日本軍を肯定的に評価したい人達からの評価は低いですし
アンクルトムの小屋も公開当時は公民権運動をめぐって賛否両論でした
しかしフランス革命自体が現代で概ね肯定的に評価されてるからこそ「レ・ミゼラブル」は好評な訳で
旧日本軍の戦略と戦術が無能で無謀だったのが現代の常識だからこそ「坂の上の雲」も好評です
勿論現代の常識で黒人差別は間違いですから「アンクルトムの小屋」も名作です
「レ・ミゼラブル」も「坂の上の雲」も「アンクルトムの小屋」もプロパガンダの混じった作品でして
上の3つの作品は全部現実の事件を作者の思想で解釈して物語風に仕上げたプロパガンダなんですが
�仝充造寮こΔ悩郤圓了彖曚�肯定されたから�⊆�然な設定で上手な物語を構成出来たから、名作な訳で
�,皚△睥省�の条件を満たしてない「まおゆう」が批判されるのは結構当然な訳です
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/anime/1360767119/
無理やり、現実の諸問題と繋げ酷評するのはまるでネガティブキャンペーンのようだ。
まおゆうスゲー!とは思わないが、それに遠く及ばない感性で批評にならない駄文を垂れ流していて落胆した。
本人はまじめに書いているのだろうが、浅い見識の上で話を滑らせても薄っぺらいだけで、心に響かない。5年も経てばさすがに主も少しは多様性の理解が深まっていることを願うが、2010当事のままだとしたら救いがない。
最初と最後がダメダメみたいなことを言ってたけど、逆。他の、話を転がす上の部分を「それっぽく」書きすぎたたけで、最初と最後のドラクエパロの色濃い部分が、作者が書きたかった部分なんじゃないでしょうかね。
つまりは、無駄遣いされた才能の部分に食いつきすぎ。
批判も、長ったらしく小難しい言葉使ってるだけで、理解させる気が無いように見える。
簡単に言えることを小難しく言うのは、頭良く見せたい馬鹿のすること。
短く纏められるのを長々と書くのは、文章量多ければ凄いと思ってる馬鹿のすること。
まおゆうをつまらないと思う人がいても自然だと思うし、批判する人がいても良いとは思うけど、主は批判できるだけの立場に無いと思うよ。
がっかり
それを人間は……魂ある存在は、己の常識や、知識に
当てはめて知ったつもりになる」
勇者「それは、覚えがあるなぁ。
自分のやり方しかないと思い込んだり、
自分が正しいと思い込んだり」
メイド姉「はい……」
魔王「それらの闇を払うには、教育が必要だ。
しかも、教育がより重要である理由は
“教育が重要であるという事実”も教育がないと
理解されないという点にある」
>>「正しいこと」が厳然としてあり、その「正しいことがある」という形式は揺るがない
まず何とも言えない、嫌悪感しか湧いてこない↑の文のおかしな所を見ていきましょう。
まず、まおゆうって作品は「正しさ」と言う物は存在しないって事を全力で伝えている作品だと思うんだ。
最初の魔王と勇者の会話だって、勇者たちが思っている「正しさ」ってのは片面的で空虚な妄想に過ぎないって言ってるわけですし。まあ↑の気持ち悪いアレな文章は最初っから破綻してるんですよ。
まとめで途中まで読んだことある、ってレベルで大した思考も出来ないけど
序盤の嫌韓、日本の統治は正しいと思ってる層、のくだりはいるのかな?
正しいとは思わないけども比較対象としては適当とは思わないな
まぁこんな何年も前のまとめにコメントしてても無駄だし意味ないよねw
わざわざあげつらうことじゃない、そんでまおゆうは結局のところ本質は単なるssなんだよ。
信者やアンチがどれだけ価値や批判を上乗せしようが単なるssであり娯楽作であり…そもそもそこまで必死になるような物じゃあないんだよ。
信者もアンチも熱狂しすぎと言う意味では同じような存在としか思えない、良くも悪くもこの作品が与える影響を過大評価しすぎという点で。
あとは好き好きだね。
娯楽作品だから必死になるな、というのは作品に対して失礼なだけなので言わない方がいいと思うよ。
いかにまおゆう好きかという熱意だけは伝わるなw
貴方作品のこと、虚構テクストって書くタイプの作者でしょ。
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