前回の記事:まおゆう( #maoyu )はなぜ批判されるべきなのか1:肯定的意見のまとめ - 見たり聞いたりしたこと

さて、いよいよ僕自身の批評に移っていくわけですが、その前に、そもそも「まおゆう」ってどんな感じのお話なのか見ていきましょう。

といっても、まおゆう賞賛派の中には、まおゆうは13スレッド費やして書かれた小説なんですが、「13スレ全部読まないとダメだ」という人が居ますが、断言しましょう。それは間違いです。むしろ、13スレ読んだとしてもあなたは1スレ目読んだときと同じ感想しか持ち得ません。賛否抜きにして中立的に考えても、「自分がこれを読んで面白いかどうか」を判断するには1スレで十分ですし、「この物語の流れを理解したい」という風な場合でも、1スレと4スレ、そして10〜12スレあたりを読めば十分です。あと、この物語の本質をよりきちんと批判的に理解したい場合は、13スレ(最終スレ)も読んだ方が良いんですが、正直それはおすすめしません。なぜなら、13スレは、このまおゆうの本質を表すと同時に、もっともダメダメなスレでもあるからです。まぁ、僕の場合、「全部読め」という煽りに乗って全部読んだからこそ、そのダメダメさがよりキツく感じられただけで、そこだけ読んだら別に普通なのかもしれませんが……

まぁとにかく、この物語のエッセンスはとりあえず1スレ目にありますので、まずはそれを見ていきましょう。

まおゆうの三つの形式と、一つの手法

http://maouyusya2828.web.fc2.com/matome01.htmlhttp://d.hatena.ne.jp/emifuwa/20100514/p1の編集を利用)

魔王「この我のものとなれ、勇者よ」

勇者「断る!」

魔王「どーしてもか?」

勇者「アホ云うな。お前のせいでいくつの国が

 滅んだと思ってるんだ」

魔王「南の森林皇国のことか?」

勇者「空は黒く染まり、人々は貧困にしずんでいった」

魔王「考え無しに森林伐採して木炭作りまくって

 公害で自滅したんだろう」

勇者「公害……?」

魔王「あー。えーっと。そうか、まだ判らないか」

勇者「誤魔化すなっ! 聖王国の大臣憑依だって

 魔族の仕業じゃないかっ!」

魔王「欲の皮の突っ張った大臣が政権奪取と

 王族の姫君大集合ハーレムを作ろうとして失敗しただけだ。

 そもそも逮捕された後に魔族の洗脳とか言い出すのは

 人間の悪人の悪い習慣だと思うぞ」

勇者「ごまかすのか……許せん……」

魔王「誤魔化してない」

勇者「南部諸王国と戦争はどうなんだ。俺は戦場で

 何百という人間が魔族の軍勢に倒されているのを

 この目で見てきたんだ」

魔王「それで?」

勇者「は? 人間世界を侵略してきた魔王、貴様を

 許しはしない!」

魔王「どちらが侵略したかという点については見解の相違だ。

 こちらにはこちらの言い分はあるが、まぁ、戦争してるのは

 事実だなー」

勇者「貴様は悪だ」

魔王「じゃぁ、悪でも良いけど。当然私を殺した後には

 南部諸王国の王族も全部抹殺して回るんだろうな?」

勇者「は? 悪はお前だけだ」

魔王「人間が魔族を殺していないとでも?

 魔族は悪で人間が善だって誰が決めたんだ?」

勇者「……っ」

魔王「そこで『俺が法だ!』とか『俺が神だっ!』とか

 『俺がガンダムだっ!』とか云えたら、お前も

 もうちょっと生きるのが楽なのになぁ……」

勇者「うるさいっ!!」

魔王「勇者は好きだから、この話はやめてやる」

勇者「好きとか云うな」

魔王「この資料を見ろ」

勇者「なんだ、これ……羊皮紙じゃないのか?

 薄くて白くてつるつるだ……」

魔王「プリンタ用紙だ。それはどうでもいい。書いてある

 ことが重要なんだ」

勇者「……えっと、需要爆発……雇用? 曲線?

 消費動向……経済依存率?」

魔王「わかったか?」

勇者「なんだこれは。邪神の儀式か?」

魔王「違う。経済的視点から見た巨大消費市場としての

 戦争の効用だ」

勇者「……効用?」

魔王「そうだ」

勇者「戦争に意味なんてあるものかっ。

 貴様ら魔族が人間世界を滅ぼすための侵略だ」

魔王「勇者がどーシテもと云うなら、ちゃんと戦ってやる」

勇者「っ」

魔王「話によっては、討たれてやっても良い」

勇者「その首差し出せ」

魔王「だから、半日ほど話を聞け」

勇者「……」

魔王「これは100年ぶりのチャンスなのだ」

まぁこんな調子がずっと続くわけです。

さて、ぼくはtwitterでまおゆうについて議論を始めたとき、このようなツイートをしました。

http://twitter.com/amamako/status/14097355198

いやでも実際問題まおゆうを賞賛していて「これこそみんなが読むべき物語だ!魔王サイコー!」とか言っている連中と「日本の朝鮮植民地支配は朝鮮半島を近代化させたから正しかったんだ!」とか言っている連中は、層として似通っているし、メンタリティもほぼ同じだと推測するよ。

http://twitter.com/amamako/status/14097481728

この最初の始まりの部分なんか、まんまマンガ嫌韓流の「朝鮮植民地支配は正しかった」論と一緒の始まり方だものw 

どうやらこのようなツイートがかなり刺激的だったようで、以降の議論もこのようなことを中心として議論がなされ、結果twitterでの議論をまとめたtogetterでも

Togetter - まとめ「魔王×勇者は第二の「嫌韓流」か

なんていうかなり刺激的なタイトルを付けてもらえたわけですw。いやでもこのまとめを作成してくれた人には感謝してますよ。こういう刺激的なタイトルを付けてもらえた結果議論がここまで盛り上がり、賞賛側もそれに対応せざるを得なくなったわけですから。それに、まさしくこういうことを僕も主張したかったんですし。

ただそこでどーも、僕がただ単に「まおゆうは、魔王が世界を近代化していき、そしてそれを肯定する物語である。だからそれは、日本の朝鮮侵略を『近代化』として肯定する物語と一緒である」という様に読んだから、嫌韓流と同一視しているんだ。というような曲解が広まったようで、前回の記事で紹介したエクストラレポート・ルームにおいてもそのような批判がなされました。

しかし僕が批判しているのは、そのような「近代化」という内実の問題ではないわけです。更に言えばそれが「魔王によって押しつけられる」こと自体も問題にはしていない(だってここだけ見たら押しつけられるか、そしてそれが成功するかなんか分からないじゃないですかw)んです。では何が嫌韓流と同じであると言っていたのか?それは、次の3点です。

  1. 「正しいこと」が厳然としてあり、その「正しいことがある」という形式は揺るがない
  2. そして、それが全ての場面で「会話」によって示される
  3. 背景の地の文は一切小説内において役割を果たさない

そしてこのような形式のもとに書かれたこの「物語」は、前回の記事でも述べられていた

  • 現実の歴史を題材にして、それを物語の中で再現する

という手法で書かれるわけで、重要なのはこの形式と手法の結合なのです。これはこの物語が進んでいっても一貫して変わらず、最終スレまで同じであると言って良いでしょう(まぁ、はっきり言って単調にもほどがある小説です)。

これの何が問題か?それを考えるためには、まず、「人は物語を、どうして楽しむのか」ということを考えなくてはなりません。

物語論の基礎

「そんなこと当然のことじゃないの?」という人もいるかもしれません。ですが、よく考えてみてください。物語っていうのはあくまでフィクション、つまり現実にありもしないことなんですよ?それを読んでも何か現実について知ることが出来るわけでもない、というか「現実」について知りたいんなら単純にノンフィクションやらを読めば良いわけでわざわざフィクションとして読む必要はないでしょう。また更に言えば、人はただたんに、それが「嘘」だから喜んでいるわけではないみたいです。だって物語にも「面白い物語」と「つまらない物語」があるわけで、別に「嘘」なら何だって良い訳ではない。とするとそこには何らかの価値基準が存在して居るみたいだ。では一体それは何なのか?

それは、ある種の「決まった流れ」に沿って動いているかどうかによって決まるのです。

例えばそれこそ「桃太郎」なんか思い出してください。あれは、悪いことをした鬼たちが最終的にその報いを受ける(因果応報)という「決まった流れ」、そしてさらにそこで、桃太郎がただの子どもから、「鬼を退治した立派な男」と成長して戻ってくる(自己感性)という「決まった流れ」が見いだせます。そしてこのような類の、他にもいくつかある「決まった流れ」は、他の物語にも当然あるわけです。他の「金太郎」やら「浦島太郎」やらの他のおとぎ話にも、見いだせますし、それこそ現代のアニメやマンガ、そしてゲームにもあり、そしてもちろん、「まおゆう」にも存在するものです。というか、それがなければそもそもそれは「物語」たり得ないんですから。ただ出来事だけを羅列しても物語は生まれないんです。そこに一定の決まった流れがないと(しかしそこでこの小説は「出来事」だけを羅列しているように見せかける。そこが今後問題になるんだけどね)。

そして、物語がそのような性質を持つ以上、それはフィクションであり続け、「現実」たることはできないのです。だって、現実に決まった流れなんてないんですから。悪がかならず報いを受けるなんてこともあり得ないし、人間はいつまで経っても変化し続けて、一つの人格が「完成」するなんてこともない。そして何より重要なのが、物語にはその「決まった流れ」に基づき、「終わり」が設定されるわけですが、現実には終わりなんて設定されません。現実はいつまでも続いていくわけです(しかしそこでこの小説は長々と書くことによって「終わり」を描いてないように見せかけ……以下さっきの括弧と同文)。

だから「物語」は「現実」たり得ることは出来ない。ところが人はそれでも「現実」を「物語」の様に受け入れたかった。なぜならひとは「決まった流れ」に基づいて考えた方が楽だからです。そして生まれたのが「物語」の亜種、「イデオロギー」なのです。イデオロギーとは、端的に言えば「現実は○○のような物語に基づいて動いている!」と主張する観念です。例えば資本主義のイデオロギーは「アリとキリギリス」という物語と同じように「きちんと労働して蓄財するものが善であり将来成功する。その逆に労働をしないものは悪であり将来当然の結果として飢えて死ぬ」という決まった流れがありましたし、あるいはナチズムというイデオロギーにおいては「神に選ばれたゲルマン民族は当然幸せになるよ。裏切り者であるユダヤ人は死ぬのが当然だよ」という「決まった流れ」が存在しました。

そのようなイデオロギーが一体どんなことを引き起こしてきたか……それは歴史が証明しています。特に日本においてはそれこそ、「アジアの人々を日本が解放する使命を帯びているのだ!」というイデオロギーが、戦争遂行に大きな役割を果たしてきました。例えば日本初の長編アニメとして「桃太郎の海鷲」と「桃太郎 海の神兵」というのがあります。これらはまさに、桃太郎という「物語」を現実に適用したものだったのです。

ですから、物語を語る人たちは、それが小説であれ、あるいはマンガであれアニメであれ、「物語」がイデオロギー化しないようにするということにはものすごく神経をとがらせてきたわけです。つまり、「これを現実と勘違いするな!」と。むしろ現実と全く別個なものだからこそ、物語は「現実にはないもの」を映し出せるんだという観点の元、物語は語られてきたのです。

前回の記事で、id:kaien氏は、「今までの物語は、『じゃあ、私たちはどうすれば良いんだ!』ということに何も指針を指し示してくれなかった。だからそれを指さしてくれたまおゆうは素晴らしいのだ!」という議論をしていることを示しました。ですが、そもそもあれだけ頭が良く物語をきちんと書ける人たちが、そんなことが本当に「出来ない」ことだったと、id:kaienはお思いなのでしょうか?当然そんなわけありません。「出来なかった」ではなく「しなかった」のです。なぜならそれは「物語」をイデオロギー化してしまう所作に他ならないからです。それが今までの作品においてどのようになされてきたかは今後の課題として、とりあえず今はむしろまおゆうがいかに物語をイデオロギー化し、そのことによって人々を動員したのか、先ほどの3つの特徴と1つの特色を元に、考えましょう。

まおゆうという「イデオロギー」

物語を「現実」の代替物となるときに何が問題となるか。まず問題となるのが、物語枠内に当てはまらない「現実」の処理の仕方です。要するに「決まった流れ」にそむく異分子の存在。これを一体どう処理するか。

まず一つに、「物語の中で『真実』と定められたものは、絶対にゆるがさず、そしてその真実どうしが矛盾を起こすことを一切許さない」という立場を取ることです。形式1で述べた「『正しいこと』が厳然としてあり、その『正しいことがある』という形式は揺るがない」はこれに当たります。

つまり、人は物語の中で相反する事実、つまり「矛盾」を見つけると、その物語に嘘くささを感じるわけです。ただ一方で、その「嘘くささ」は通常の物語の語りにおいては、上手く調理すべきものではあるとはされるが、しかし完全になくすべきものとは考えられていないわけで、物語を作る人の中にはむしろ積極的に、物語の中の設定には「矛盾」を作り出すべきだと考えている人もいるわけです。つまり、そういう矛盾を通じて物語の受け手は、「ああこれは現実ではないんだな」と確認すると同時に、そこから更に、この「現実ではない、可能性としての物語」から、また別の「可能性としての物語」を想像することが出来たわけです。

ところが、「現実」たることを志向するまおゆうにおいてはそういうことが許されないわけで、一切物語内で提示している「真実」は整然と整えられ、そこに矛盾は間違いはあってはならないとされるわけです。例えば、まおゆう賞賛派はよく魔王のビジョンが完璧でないことを証明するものとして、「魔王はマスケット砲によってあそこまで人が死ぬことを悔いていた」ということを言う人が居ました。ですがそれは未来予測の誤りであり、現状認識の誤りではありません。「現状認識」という一点においては、魔王はご都合主義的に超越的な特権を得るわけです。統計を元に導き出す推論は誤るかもしれないけど、「統計に基づく事実」自体は絶対に誤らないわけです。そのように「真実」を固定した形で認識できるようにすることによって、物語は「真実の多様性」という、現実にはない物語固有の性質を失い、イデオロギー化するわけです。

そして、それよりさらに必要なこととして、「語り手」を絶対に見えないものとすることがあります。ここで形式3の「背景の地の文は一切小説内において役割を果たさない」が活用されます。つまり、地の文こそがまさしく「語り手」なのですから、それを見せたくなければ、地の文をなくしてしまえばいいのです。そのことによって「私は読者に『自分の解釈』を押しつけてませんよー、これは『現実』をありのままに描いたものなんですよー」というポーズを示すわけです。

そして最後に一番重要なこととして、「決まった流れ」を出来るだけ読者に気づかれないようにしながら、描くということです。例えば前回の記事における超克派の感想として、「この物語は勧善懲悪を超克しており……」というのがありました。ですが皆さん、作中でどうやってそれらの人物が描かれていたかを全て無視して、結果だけ見てごらんなさい。滅びなかった「悪」がありますか?そう、「ない」んですよ。改心するか滅びるか。実はこの物語、極めて勧善懲悪的なんです。ですが人々はそれを感じない。一体なぜか?答えは、形式2、「全ての場面が「会話」によって示される」からなわけです。つまり全体の流れが指し示されない。あくまでその局所局所だけが描かれる。だから物語としては「決まった流れのない『現実』を描いている」とされるんだけど、しかしそれを認識するところではきちんと「決まった流れ」に基づいている(会話の「どこを」描くかは作者によって決められるんだから当然なんだけどね。ドキュメンタリーが「現実」たりえないのと同じ理由で)と、そこで人は、本来「『決まった流れ』に則って描いているから『決まった流れ』になっている」はずなのに、「『現実』をそのまま描いても『決まった流れ』になるんだ!」と勘違いするわけです。それこそまさにイデオロギーの本領な訳です。

これらのことにより、まおゆうという「現実の歴史を題材にした物語」は、見事に現実を詐称する、「イデオロギー」となるわけなのです。では次に、このような前提に基づいて、ではまおゆうというイデオロギーはどのように人々に読まれているか、見ていきましょう。

「まおゆうを読む」とはどのようなことか

先ほどから僕はさんざん口を酸っぱくしながら「まおゆうは、物語を『現実』の様にしている」ということを主張してきました。しかしそれはもちろん、「まおゆう読者はこれを実際の世界の歴史だと勘違いする」というようなことを主張しているわけではありません。しかしじゃあエンターテイメント派が主張するように完全なエンターテイメントとして消費されているのか?そうではありません。そこには、嫌韓流と同じように、それを「現実」として受け入れさせるトリックがあります。それは「教科書としての現実」です。まおゆうに対する有力な見方の一つに、「教科書として読む」ものがありますが、まさにそういうものとして、まおゆう読者はまおゆうを「現実」として認識するのです。

ちょうど社会科か、あるいは英語の、教科書や副読本を想定してみましょう。そこでは男の子と女の子が会話をしています。彼らは時にゴミ問題であったり日本の政治のことであったり、あるいは英語の教科書ならば「これはペンです」、「私はリンゴが好きです。」みたいな会話をしているかもしれません。そういう教科書を読むとき、その男の子と女の子が「実在」している、なーんて思う人は居ないでしょう。その意味では別にまおゆう読者もまおゆうが史実だと思ったりはしないわけです。しかし一方で、そういう風に理解していたとしても、教科書によって授業を受ける生徒は教科書を「現実」として理解するわけです。それと同じように、まおゆうを読む人はまおゆうを「現実」として理解するわけです。そしてだからこそ、「教科書」が嫌いな人は、生理的にこの小説を受け入れないのです(但しその逆は真ではないけど。だってこの教科書は、教科書でありながら「物語」だもの)。

実はこのような観点に立てばエンターテイメント派がなんでそういうことを言うのかもはっきり分かります。彼らは生徒に「この教科書は純粋に面白いものから読もうよ!」と薦める教師なのです。もし本当に純粋に楽しいならそもそも「純粋に面白いもの」なんて言う必要がないわけですから。

ところが、じゃあこのまおゆうは、教科書派が言うように純粋に、世界の仕組みについて学べる「教科書」として読めるのか?もしそうなら、別に批判されるものではないでしょう。ですがこの「まおゆう」は、教科書な訳ですが、しかし一方で、そこにはイデオロギーとしての物語が含まれています。教科書のように複数の人によってつくられ、中立性が考慮されているわけではありませんから、当然そこには一定の価値基準、「決まった流れ」があります。もちろん、これはまおゆうがただの「物語」であるなら、当然許容されることです。ですが、そこでまおゆうがイデオロギー化を選択するがために、大きな問題となるのです。それが一体具体的にどのような問題か。最後にそのことについて、まおゆうの最終スレを参照しながら考えていきたいと思います。

精霊「二つのどちらを選ぶか、君たちの自由だ」←それって結局二つしか選べないように制限されているってことじゃん

実は、この物語というのは、その最後まで、その「物語」としてのしっぽを出しません。だからこそ退屈だったわけですが、一方でこのまおゆうは、だからこそ自らが「現実」であると偽り続けられたのです。

ところがそれはまおゆうの「終わり」において、矛盾をきたすわけです。なぜなら、「終わり」とは物語と現実の違いを、最も明確に示す地点だからです。すなわち、物語は「終わる」が、現実は決して「終わらない」。現実は終わらないからこそ、そこで「決まった流れ」なんかもありえないのです。

ですが、終わることを強いられたまおゆうは、最終スレ付近においてまるで断末魔のごとく次々とおかしなことになっていきます。あれだけ現実的な描写にこだわっていたまおゆうにおいて、突然「世界は一つのシステムであり、そしてそのシステムが自らの均衡を保つために、『勇者』と『魔王』という役割を二人に割り当てた」などというトンデモ設定が飛び出してきます。ですが、このトンデモ設定がなければ、「魔王は魔王になる理由があった」、「勇者には勇者になる理由があった」という「決まった流れ」を示すことが出来ないのですから当然なわけですが。そして更に、光の精霊というご都合キャラも飛び出し、そしてそのキャラが主人公たちに二つの選択を迫ります。曰く「このままずーっと何も変わらない社会」か、「大きな犠牲を出すかもしれないがその世界の均衡を破ること」……

はい、ここで皆さん、一つ重要なことを覚えましょう。これからの人生においてぜーったいに役立つ知識ですから。

二項対立の内どちらかを迫られるっていうのは、大抵それ以外のあらゆるものを見えなくするための装置である

光の精霊は「私がずーっとこの世界を停滞させてきた」と主張しますが、まぁそんなこと現実ではありえないわけです。そんな超越的存在なんかは存在せず、世界は、人々が望もうが望まなかろうが常に変化しているわけです。ところが、それを認めてしまうと自分たちのすべきことに対して「決まった流れ」を信じることが出来ない。だからここで非現実的な精霊なんてものを出すことにより、「世界を変える私たち」という「決まった流れ」を提示せざるを得ないのです。そして、このようなシステムとか精霊とかいうトンデモ設定をむりやり使うことによって、この物語は強引に終わるわけです。あたかもキリスト教というイデオロギーが、「ハルマゲドン」というトンデモ設定を用いることにより、イデオロギーとして現実を模しながら「終わり」をねつ造したようにね。

まぁ、キリスト教に比べたら、この終わり方ははるかにできが悪いわけだけど、まおゆうという物語も、これで終わり、そして「イデオロギー」として不滅の命を得ます。「勇者が勇者として存在し、魔王が魔王として存在したように、私が私として存在するのも、システムによってもたらされた意味あることなんだ!」という風に自己啓発派はこの物語を基礎に絶えず自己啓発し、そして「世界を変えることを選択するんだ!」と超克派は、(彼らの頭の中にある)閉塞した時代を打破せよとアジテーションを行う、とても気持ち悪い光景が待っているわけです。

何が気持ち悪いか?物語がイデオロギーとして現実を詐称することの最も怖い点は、それがコミュニケーションを経たものでないために、きわめて独善的であると言うことです。それこそid:kaienやid:izuminoやid:sikii_jの態度を見ればそれは一目瞭然です。「なんで世界を変えよう!と思うことがそんなに良くないことなのか?」、「なんで自己を啓発することが良くないことなのか?」、彼らはそれについては全く疑うことをしません。その考えの中身が実際にどの程度批判すべきものなのか。それは置いておきます。問題は、それがイデオロギーに基づき、コミュニケーションの中で鍛えられたものでないという形式です。そしてそれはイデオロギーが物語を元にするものである以上当然のことであるのでしょう。だって物語っていうのはあくまで「独考」から形作られるものなのですから。だからこそ、本来物語は意図的に「現実」から距離を置き、虚構でなければならないわけです。そして現実から距離をおき、「現実ではないもう一つの可能性」という風に自らを位置づけるようにすることによって、現実との関係を得て複数性を獲得する。逆に、物語が現実となってしまったら、そこには「現実=物語」の単一しか存在しません。だからこそイデオロギーは必然的に、暴走から逃れることは不可能なんです。

願わくば、せめてこの記事が、彼らの「暴走」を防ぎ、まおゆうというイデオロギーを脱イデオロギー化する助けにならんことを……

(とりあえず終わり。ただ気分が乗れば、次回はまおゆうと他の、コードギアスとかデスノートとかハガレンとかの作品と比較し、まおゆうに比べてそれらがいかに巧みに、自分たちがイデオロギーにならないよう防いでいるかを書きたいと思う。物語の表面だけ見て「そういう作品と同じじゃん」と言う態度があまりに多いからね……)

宣伝

もう今日の話になっていますが、蒲田産業プラザPioにて行われる文学フリマで ゆとり世代部の「ゆと部報 vol.10」と そのさらに一部有志のミニコミ「サボイ」を領布します。僕は「サボイ」の方に「U-49」という、牛久大仏をテーマにした小説を書いていて、当日は僕もそこに居るので、「あんな偉そうなことを言っているはじゃあどんな小説を書いているって言うんだよ?」とか、「こんな酷いことを書く奴の顔が見てみたい!」とか言う人は、是非お越しください。