twitter見ている方はまぁご存じかと思いますが、実はちょっと前から僕はずーっとある小説に対して批判をしていました。

http://maouyusya2828.web.fc2.com/

正式名称は、「魔王『この我のものとなれ、勇者よ』勇者『「断る!』」だそうで、2chで書かれた小説です。

今までの議論のまとめ

このまおゆうに関しては、今まで賞賛派・批判派双方様々な記事が書かれてきましたし、twitterでも多数の発言がありました。

googleで検索

はてブタグ

#maoyu(twitterハッシュタグ)

……いやまぁ、はてな界隈ばっかなんだが。

で、まずはそこでどんな議論がなされてきたかということを整理していきましょう。どんな議論もまずは先行研究のレビューから始まるわけで、それをせずに「俺新しい意見言ってるぜー、だからさいきょー」とか言われてもどうにもならないですし。

まおゆうはこれまでの物語を超克する立場だよ!派(超克派)

はい、まず一つ目の立場、「まおゆうはこれまでの物語を超克する立場だよ!派」です。ここでは超克派と呼ぶことにします。

泣けるほどおもしろすぎるネット小説を読んだので熱烈推薦するよ。 - Something Orange

『ナウシカ』や『ガンダム』の「その先の物語」とは何か。 - Something Orange

「魔王×勇者」が「その先の物語」を描けた理由 - 未来私考

魔王が世界を征服できない問題への一つの回答となる「まおゆう」 - 最終防衛ライン2

 ぼくは時代的閉塞感の先の物語を見たいと思う。その火が遂に上がった! そのことにわくわくしているのだ。「丘の向こう」には何があるのか? それはわからないが、いずれにせよ、素晴らしい景色に違いない。はてしない血と泥のかなたにある景色なのだから。

(『ナウシカ』や『ガンダム』の「その先の物語」とは何か。 - Something Orangeより)

勇者が勝っても魔王が勝ってもこのドラクエ的な勇者と魔王の世界は、ジリ貧で先のない閉じた世界なのだ。ドラクエ的世界の先がジリ貧であることは、世相も相まってみんな心の奥底では気づいているのかもしれない。

(略)

「魔王×勇者」が「その先の物語」を描けた理由 は2ちゃんねるのスレッドに書き込まれるという形式のため物語を完結する必要がなかったことと、勇者と魔王の世界の行先はジリ貧だとみんなが薄々感づいていたこと、そしてもちろん作者の力量も。また、2ちゃねるの下地として会話しか無い戯曲的なテンプレートが存在していたことなどなど奇跡みたいな偶然が重なったからだろう。

(魔王が世界を征服できない問題への一つの回答となる「まおゆう」 - 最終防衛ライン2より)

ごく簡単に要約するならば、「なんか現代の状況って先行きも見えないし、ゲームとかアニメとかの物語もこれまでは『正義は正義、悪は悪!』という感じで割り切るか、『正義も悪も分からないよね』って所でとどまるかっていう物語しかなかったところに、勧善懲悪論を否定しながら、しかしそこで立ちどまらず、『丘の向こう』に新しいユートピアがあることを示した物語である!」というような内容の批評である。画面の向こうで笑いをこらえてる人も居ると思うが、笑っても良いと思う。

ちなみに、そういう二項対立的な停滞した近代の克服っていうのは、それこそ戦前の頃から言われてきたことで、より詳しく調べたい人は「近代の超克」という単語で図書館やらネットで調べれば良いと思うのだけれど、昔戦前の偉い知識人たちは「日本は西洋が生み出した近代という時代を学びながら、しかしそこで日本的精神をとり入れることによって、それを乗り越える、誰もが幸せになれる新しい時代を築いたのです!」という議論で、上記に挙げた議論なんていうのはその「日本的精神」を「経済学」やら「マネジメント」やらに置き換えただけである。

だから、ちょっと頭のいい人はそのような馬鹿なことはせず、その近代を乗り越える「何か」は明示されていないと主張しているわけだ。

エクストラレポート・ルーム:【まおゆう】魔王の知らない「向こう」は私達もきっと知らない【批判議論も】

しかしそれでも「近代は停滞したものであり、そしてこの物語はそれを『乗り越えるべきものである』と主張している点で素晴らしい!」と言っているのは同じである。

やっぱり、今こういうのウケるなってのは感覚的に分かる。

 一つの対立構造に一つの敵ばかり押し付けられる、自分の立場と権利だけを主張してればいいんだと目隠しされる、そして偉い人がいつか何とかしてくれると信じて待ってろと無理やり空手形の約束を掴まされる。

 あとは、悪い奴、みんなから浮いている奴を探せ、それを叩いていれば世は事もなし。

 そんな閉塞感が飽和状態に来ている。それはやはり自分だけの事じゃないと思い知らされる。

 まおゆうが書かれた背景にも、ここまで評判を呼んだ背景にも、そういう空気の存在を感じた。

まぁ、彼はサヨみたいだから、そこで乗り越えられるべきものとしてネオリベとかをおき、「まおゆうはむしろネオリベを乗り越えるような物語だ!」と主張する。

だけど、ちょっと学がある人なら当然分かる人だが、ネオリベというのはむしろ「奴隷制」とかそういう思想とは正反対のものです。だってそれは「新自由主義」なのだから、自由こそ全てなの。そして、全て自由な中で、社会が弱肉強食化され、その中で適したものが生き残ることにより、社会がダーウィニズムに基づいて改善されていく。そう、新自由主義だって立派な「丘の向こう」を目指す思想なのです。

そしてそのような誤解をはらみながら、彼は次のような仮説を打ち立てる。

 もやもや考えてる内、この噛み合わなさは、読み取った解釈の違う所から始まっている部分もあるんじゃないかと思った。

 まず、まおゆう世界から見た現実の現代世界が、多くの批評では魔王や勇者の目指した「丘の向こう」の先にある未来としてあるという事を前提にしている。

 だから、魔王や勇者の目指している世界が、自分達の知る近代や現代であり、自分達は「丘の向こうの先」からまおゆう世界を見る事が出来るという視点。

 だけど、自分は現実のこの世界とは、魔王に「いろんな世界がそうやって滅びていったんだ」と語られた異世界のサンプルの一つに過ぎないのではないかと解釈して読んでいた。

 つまり、現実のこの世界に魔王の見出した「丘の向こう」は存在していない。

この人は多分他人がものすごい馬鹿に見えているんだろうなぁ。実際はそういう風に見えている人こそ……まぁいいや

誰も「俺が丘の向こうに居るぞ」なんて主張してないんですよ。賞賛派も批判派もみんな、この小説は「丘の向こうに進む意志」の物語として読んでいる。その方法が明示されているか明示されていないかは解釈が分かれているけど、しかし明示されていると主張している側だって、それが「これから」やらなきゃいけないことだって主張しているわけで、だっれも「近代」が丘の向こう側だなんて主張してませんよ。

そして彼はこういう風に文を閉じるわけだけど

 だから、まおゆうを部分要素的・技術的なものとしてではなく、何かを描く物語として批判するなら「その丘の向こうの見出され方、求められ方」「その道のりの(進む者に合わせて道を空ける世界)ご都合主義や恣意的さ」あるいは「丘の向こうを見出し求める事それ自体」の批判になるべきだと思う。

 ちょうど、物語の登場人物「王弟元帥」がそうした様に。

うん、みーんなとっくにそこで議論してるからさぁ。「俺がすごい発見したー!」とか主張する前に、もうちょっとこれまで何が議論されてきたかきちんと読んでくれない?

まおゆう読んでるとなんか自分が啓発されるよね!派(自己啓発派)

そして次に、まおゆう読んでるとなんか自分が啓発されるよね!派が居ます。

人生を変えることのできる物語/魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 - ピアノ・ファイア

『魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」』があまりに、あまりに面白かったのですよ。 - 万来堂日記2nd

最後まで読んでいないのに……しかも、読了組の友達が言うには、この先から更に信じられないくらいの奇跡のような物語を見ることができると予告されているのですが、それでも傑作だと実感できるのは、みなもと太郎『風雲児たち』を読んでいた時と同じような感覚が今ぼくの中で起こっているから。

 登場人物たちの、理想の高さが感染してくる、あの感じ……。

 『風雲児たち』も、まだ終点にいたっていない作品なのですが、あれはたとえば無印版の途中までを読むだけでも「読者の人生を左右する」には充分な物語になっていると思うのです。それは、未完の状態であろうと疑いようがない。

 だから同様に、このSSはたとえ途中までだろうと読者の生き方を変えうるものがすでに描かれている、とぼくは感じる。

(人生を変えることのできる物語/魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 - ピアノ・ファイアより)

これは知識と理想を高らかに歌い続けることが如何に尊いことであるか、それについての物語である。

あなたがどこかで知識を求めているのなら。

あなたがどこかで理想を棄てきれないでいるのなら。

この物語は、あなたと共にある。

(『魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」』があまりに、あまりに面白かったのですよ。 - 万来堂日記2ndより)

要するに「まおゆうは理想が高いキャラクターたちがその理想を実現するために奮闘していく物語だよ!だからその物語につられて自分たちも理想高く頑張ろうって気になるよ!」という主張です。

ですが物語の中でその理想っていうのは「丘の向こう」って主張されているわけで、しかもその「丘の向こう」っていうのは当然その世界全体を動かしていかなければたどり着かないわけです。ですから当然それは社会という観点から見れば「今の時代を超克していく」というのと同じことになってしまいます。このことは現実社会の私たちにおいても同じ。「理想」を掲げて人々が行動すれば、当然社会の方も動くでしょう。以上のことから、「超克派」と「自己啓発派」はその両面において同じ。むしろ、同じコインの両面であるとも言えるでしょう。そのことはid:kaien氏が一方で、↓の様な極めて自己啓発的な文章を書いていることからも分かります。

 ここには、コンプレックスやルサンチマンを持つものはいない。より多くの才能を恵まれて生まれてきたものを妬むものもいない。ただ、だれもがそれぞれの役目を正しく果たそうとして努力しつづけているばかりである。

 ここには人間存在の、この物語の言葉を借りれば「魂をもつもの」の希望がある。人間はなんとすばらしいのだろう。暖かいのだろう。優しいのだろう。読みすすめるうちにそう思わずにはいられなくなっていく。

(『ナウシカ』や『ガンダム』の「その先の物語」とは何か。 - Something Orangeより)

ただ、それでも表面上の主張は異なりますし、また分析概念としても分けておくと後々好都合なので、ここでは分けておきます。

まおゆうは経済学の教科書にもなるような小説だよ!派(教科書派)

また、より直接的に、「まおゆうは経済学の教科書にもなるような小説だよ!と主張しようとしている人々が居ます。この人たちについては「教科書派」と呼ぶことにします。

はじまりの物語 - レジデント初期研修用資料

『まおゆう』の感想を淡々と書き連ねる - マンガLOG収蔵庫

社会科学論ノートからの抜粋 (まおゆうの感想)

そして上の引用とか魔王と勇者が行う改革からも判るかと思いますが、この作品は(現実の)世界史を凝縮したような内容にもなっています。中世〜近代にかけての歴史的事象を主なモチーフとして物語が構成されていまして、とりわけ大きな要素となっているのが宗教改革と南北戦争ですね。十字軍遠征も含まれていますか。そこに上で挙げた農法とか航海術とか、他には活版印刷の発明やマスケット銃、マスケットの導入による戦争の形態の変化といったものまで俎上に上がります。それら殆どに経済も密接に関わっているのも重要です。

時系列がバラバラであるこれら歴史上の出来事を、ごく限られた期間のなかに圧縮して纏めあげた手腕は見事としか言いようがありません。巨大な歴史のうねりみたいなものを圧倒的な密度で読み進める、希有な体験ができるのではないかと思う次第です。

(『まおゆう』の感想を淡々と書き連ねる - マンガLOG収蔵庫より)

先ほど、この物語は「丘の向こうを目指す物語ではないか」という超克派の見方を紹介しましたが、この教科書派は、そこに行く「生き方」を重視しているという点で、エクストラレポート・ルームで批判されている、「丘の向こうを近代と勘違いしている人々」なのかもしれません。

しかし一方で彼らは、このような言い方をし、「『丘の向こう』の向こうを目指そう!」とも主張するわけです

で、魔王と勇者の物語が終わって。『あの丘の向こう』の『あの丘の向こう』は何?

それを目指した別の『魔王』がマルクスだったりするんだけど。たぶんまたそれは別のお話。

(社会科学論ノートからの抜粋 (まおゆうの感想)より)

それからも分かるように、この人たちも「丘の向こう」へ行った結果を重視するのではなく、行こうとする「運動」を重視しているのですから、やはりエクストラレポート・ルームの論法は藁人形論法であると、主張せざるをえません。

まおゆうはただのエンターテイメントとして面白いんだよ!派(エンターテイメント派)

一方で、上記のような議論や、それを批判する議論に対し、それを「思想的な話」と捉え、そして「そうじゃなく、まおゆうはただのエンターテイメントとして面白いんだよ!」と主張するエンターテイメント派も、論争後期に現れてきたわけです。といっても、彼らはそもそも議論とかしたくありませんから、twitterでは呟くものの、記事ではこの程度のものしかありません。

「絶賛すぎて気持ち悪い」を恐れるな - 敷居の先住民

おもしろいか、おもしろくないか。それだけが問題だ。フィクションに思想だの教育云々など極上の料理に蜂蜜をぶちまけるがごとき愚行。とかいいたくなるけど、それは思考停止だと怒られちゃうかの。

これだけ短いとまぁ要約する必要はありませんね。

しかし、「おもしろいか、おもしろくないか」だけで本当に作品の批評とは済んでしまうものなのか?こういうヒートアップしている時に、例えを出すのはあんまり良くないこととされていますが、敢えて例えを出すならば、世の中には「プロパガンダ芸術」というものがあるのはご存じでしょうか?例えば有名なものとしては『國民の創生』とか『意志の勝利』とかがありますし、例えばディズニーなんかも戦時中にこんなアニメがあります。

http://www.dailymotion.com/video/x555gw_victory-through-airpower-trailer-19_shortfilms

これらは作品として素晴らしいことは否めません。ですが、じゃあ「面白いから全て良い」のか?そんなことはありません。例えば『國民の創世』は黒人差別を肯定し、『意志の勝利』はナチスを美化し、そしてディズニーのアニメは日本への無差別爆撃を肯定しました。それら全部、「面白いから可」なのでしょうか?

あるいは、『シンデレラ』とか『白雪姫』というような物語が、良妻賢母として生きるよう女性を教育するために広められた、という議論もあります。つまり、物語の中で一定のイメージを描き、しかもそれに一定の価値を与える、そういう物語から、人々がその一定のイメージを一定の価値を持って見るようになるということは、特にそれに対する批判的な見方が一切ないような場合に、ありうることなわけです。そのような場合、物語が人々にある一定の「見方」を与えているのではないか?という批評は、当然あってしかるべきなのではないでしょうか。

また更に言えば、そもそもなぜ敷居氏はこの物語を「面白い」と感じたのか?ある物語がフィクションであり、思想と全く関係ないと仮に言えるとしても、それを受容する読者の側は、当然社会的に生きて、社会の中で、「何を面白いものと感じるか」という感性も形成されるわけです。とするならば、その面白いと感じられた物語から、人々の感性、そしてそれを形作ってきた社会も考えることが出来るわけです。エンターテイメント派は「ただのエンターテイメント」と言いますが、ただのエンターテイメントとして人々に受け入れられるからこそ、それは考慮され、批判の対象になるんですよ。

そして更に言うならば、こうやってことさら「ただのエンターテイメントだ!」と主張する人たちが登場するということも、実はこの物語の悪しき性質を、一つ表しているのです(これについては次回の記事で……)。

まおゆうは単純につまらないよ派(つまらない派)

さて、ここまではどちらかというと賞賛派の立場だったわけですが。ここからは否定派の立場について見ていきます。

といってもここで紹介する立場は「否定派」というよりは「疑問派」という風に見た方が良いかもしれません。つまり、別にこのまおゆうが良いとも悪いとも思ってなく、そうでなくて「自分にとってはつまらないし、何で人気なのか分からない」という立場なのです。

Togetter - まとめ「「まおゆう」って何が面白いの?」

しかし一方でそのような立場からも色々考えることはあるわけで、特にこの@machiko22氏は次のような分析をまおゆうに対して行いましたが

以上が私の理解した「まおゆうヒットの理由」です。従って、1)ハヤリの経済学に興味があって 2)ノベルゲーム文体を読み解く素養があって 3)萌えキャラ好き って条件を満たす人は、深くはまるんではないと思いました。逆に、この作品が自分に響かなかった理由は、この3つのどれにも当てはまらないから。

これはまおゆうという物語について極めて重要な考察であるように感じます。ではなんでこのような特徴があるのか?それについてはこれから考えていきましょう。

まおゆうの中身で美化される思想って、結局新自由主義なんじゃないの(新自由主義批判派)

ねこねこブログ : 巷で話題の「まおゆう」読了。長すぎ、面白くない上に、これはひどい「冷酷さを正当化する物語」…。

当たり前ですけど、ファンタジーRPG世界って、現実世界とは全然違う訳ですよ。何しろ、魔法とかモンスターとか謎のスーパーエネルギーとかがあって、一騎当千どころか、一騎百万みたいな、人間の限界を遥かに超えたスーパーマン英雄達がごろごろいるんですから、そりゃ現実世界と違うのは当たり前な訳です。まおゆうはそれを無理矢理、現実の経済論の位相に引き戻して語っていて、しかもそのやり方が酷いなあと感じましたね…。

まおゆうは、一言で纏めると、ファンタジーRPG世界を「自己責任論ネオリベ経済学」を語るための出汁にしているんですね。RPG好きとして、こういうのには乗れないなあと思いますね…。PRG世界の経済や秩序、人々の生活などの全ては現実世界とは全く違うものでしょう。現実世界では実現不可能なファクターが大量に入っているのですから。色々な制約に縛られた現実世界では不可能なことを可能にすることが、ファンタジーRPGの醍醐味だと思うのですね。魔法で空を飛んだり、一騎当千の英雄になって、平原を埋め尽くす大軍をばったばったとなぎ倒したり、全世界を揺るがす力を秘めた魔法の宝玉を手に入れたり、『ファンタジックな夢を叶えられる』のが、ファンタジーRPG世界の良さだと僕は思うんですね。

つまり、物語中ではその方策として、多数が幸せになる「丘の向こう」に行くためには、少数が犠牲になって良いといった、新自由主義な考え方が肯定されていると。そしてそんな考えを前提としたまま「丘の向こう」に行くことが肯定されると言うことはおかしいんじゃないかと、そういう主張です。

これは本当に、全くその通りなんですよね。そこでこのまおゆうを賞賛する側は、「いやその見方は間違っている!例えば魔王はマスケット砲を確かに導入したけど、それによってより戦争の犠牲が多くなったことを悔いていたじゃないか」という反論をしますが、そういう問題じゃないんです。じゃあ、例えそこで選ばれるのが、マスケット砲ではなく、もっと優れた、これまでの戦争より犠牲者が少なくなる大砲だったら良いのか?そうじゃないとkagami氏は言っているんです。例え犠牲が少数であり、それにより助けられる人が多くなったとして、でもそこで「少数の犠牲を出すこと」は起きる。しかしこの物語ではそれは「仕方がないこと」として肯定される。それはどーなの?と問うているのです。時代が進歩していくために、「優れたもの」を優遇し、そしてそれにより「劣ったもの」を切り捨てていく、そのような態度について、kagami氏は「新自由主義的」だと批判しているわけです。

ただ、そこで、kagami氏は物語の中で提示される選択肢の内実、つまり「内容」を批判しているわけですが、その一方、そもそもその内容を成り立たせている「形式」が一体どんなものかに注目する考えもあります。このような視点についてはkagami氏もこの文章の前半で「現実世界と違うのは当たり前な世界を無理矢理、現実の経済論の位相に引き戻すこと」を批判していますが、下記の「啓蒙批判派」において、この問題はより詳しく論じられています。

まおゆうは啓蒙主義であり、問題があるんじゃないか派(啓蒙批判派)

この立場はまおゆうの中に「啓蒙主義」を見、そしてそれは問題ではないかと考える立場で、ここでは「啓蒙批判派」と呼びます。では、そもそも「啓蒙(主義)」とは何か?

「まおゆう」の啓蒙話法は、確かに問題をふくんでいるかもしれない - 法華狼の日記

超越性をもたされた登場人物の扱いとか、肥大化した作品における冒頭の不都合さとか - 法華狼の日記

魔王と勇者と救われないボクら。 - PaPaのスローマンガライフ

「丘の向こう」に行かなければ夢をかなえるどころか生きながらえることもできない「甲斐のない人生」を選ばされた少年少女に対し、全く政治的に正しくない出来事で心を叩き折ってまで「あの丘の向こう」を全否定した下記映画を見返しながら、上記のようなことをつらつらと思った。

『交響詩篇エウレカセブン : ポケットが虹でいっぱい』 - 法華狼の日記

「丘の向こう」が近現代へ続く道ではなく、ここにはない「坂の上の雲」「ネバーランド」ではないがゆえに、否定されなければならないという観点もあるわけ。

(超越性をもたされた登場人物の扱いとか、肥大化した作品における冒頭の不都合さとか - 法華狼の日記)

現実には「世界を動かすシステム」なんてありはしません。世界を救えるたった一つのクールな方法が無いように。何度か書いて来ましたが、私は何かを見ないようにして生きている。そしてそれは「無かったことにされている」けれども、確実にそこにある。そしてそれを見ないことで「正しく回る世間」なんて「永遠の嘘」でしかありません。ただの嘘を「永遠の嘘」にするために、嘘はさらに上塗りされる。そこに棹を差す方法を考えることすら嘘なのかもしれない。そして今日も私には見えないところで「暴力」は振るわれ、「差別」される人々は涙を流している。「正しい事」が本当に正しいと誰がわかるのか、ということ。それを「正しいのだ!理屈に穴は無い!」と言い募ることは「永遠の嘘」ではないのでしょうか。理屈の正しさは何も担保しません。前提が嘘なのだから。

そういう意味で「まおゆう」の世界でいう理論は「正しさを装った嘘」になってしまっていて、歴史修正主義との類似性もそこにあります。

(魔王と勇者と救われないボクら。 - PaPaのスローマンガライフより)

ここで重要なのが、啓蒙という立場を批判する側も、別に啓蒙される「中身」を非難しているわけではないということです。だって、それならその中身を、例えば「近代」とか「新自由主義」とか言って名指しして批判すればいいわけで、別に「啓蒙主義」なんて言葉を使わなくてもいいわけですから。

考えてみれば「啓蒙主義」というのはなかなか奇妙な言葉です。「啓蒙」っていうのは例えば「○○を啓蒙する」なんていう風に、名詞ではなく動詞として使われる言葉なんですから、でも、「啓蒙批判」においてはそこがミソになるんですね。つまり、啓蒙される「中身」が批判されるべきだから、啓蒙主義は批判されるんじゃない。そうではなく、何かを「啓蒙」するという、その行為の「形式」こそが批判されるのです。「このまおゆうを批判している人は、この物語が近代を人々に押しつけているとみなしているから批判してるけど、それは違う。」なんて馬鹿なことをエクストラレポート・ルームは言ってましたが、それがいかに馬鹿なことか分かったと思います。

まさて、ではこの物語は何が啓蒙主義的か?それは、「『丘の向こう』という正しいものがあり、人々はそれに進まなければならない」という、「正しさ」を想定する態度なのです。そこで問題となるのは「正しさ」の内実ではありません。そうではなく、それがどんなに正しいものであれ、それを「正しさ」として提示し、そしてその方向に進む正しい道がある、人々はその道を進まなければならないとする態度が、問題となるのです。

ここで、「いや、でもこの物語は『丘の向こう』に行く正しい方法がどんなものかについては、一切提示していないよ?」という反論があるかもしれません。しかしそれでも「丘の向こう」の存在自体は圧倒的に「正しい」ものとして、作者に肯定されるわけです。そうなれば、そこに向かう道もあるでしょう。そして、そこに進む道を進むべきかどうかはともかくとして、その「丘の向こう」の存在自体は、人々に啓蒙される。そのような態度を、啓蒙批判派は批判しているのです。だって、そうやって「丘の向こう」を宣伝し、に行こうとすることによって、ホロコーストも起きてきたし、日本のアジア侵略と、そしてその帰結としての太平洋戦争も起きたんですから。それぞれにおいては当然「丘の向こう側」の内実は異なってきました。しかし重要なのは、それが正しいものとされ、そしてその「正しい」ものの内実については一切批判が許されてこなかったことが、歴史の悲劇を引き起こしてきたと言うことです。

そして、僕もこのような見方に賛同するわけです。ですが、僕はそこで更に、ここに「物語論」の観点を導入して、このまおゆうという物語を、「物語」でありながら「正史」として人々を啓蒙しようとするものとして、批判していきます。(次回へ続いた

宣伝

もう今日の話になっていますが、蒲田産業プラザPioにて行われる文学フリマで ゆとり世代部の「ゆと部報 vol.10」と そのさらに一部有志のミニコミ「サボイ」を領布します。僕は「サボイ」の方に「U-49」という、牛久大仏をテーマにした小説を書いていて、当日は僕もそこに居るので、「あんな偉そうなことを言っているはじゃあどんな小説を書いているって言うんだよ?」とか、「こんな酷いことを書く奴の顔が見てみたい!」とか言う人は、是非お越しください。