アニメ映画の評で、それも原作があったり既にTVアニメ化されていたりする作品だとよく、「原作ファンにはお勧めの映画」とか、あるいはそうでなく「原作ファンでなくとも楽しめる映画」なんていう評がされたりしますけど、この映画はなんというか、そのどちらでもないような気がしました。
というのも、僕が見終わって始めに抱いた感想っていうのが。「銀魂ってこんな面白いものだったんだなぁ。TVアニメの方ももう一回見直したいなぁ」っていうものだった訳です。つまり、「TVアニメや原作が好きだった者として、その好きだったものを映画で再確認できたのが出来たからうれしい」でも、「普通に映画として面白かったけど、別に原作やTVアニメに興味は持たない」でもなく、「映画面白かった!だからこそ原作にも触れてみたい!」と人に思わせる。そんな映画だったと思います。
「余計なものによる豊かさ」
まぁ粗筋とかは別に映画の公式サイトとかでいっぱい読めるんで省略しますが、やっぱり話のテーマとして、紅桜編、というか銀魂には「余計なもんを背負うことの大切さ」というのがあるのだなぁと改めて思いました。元々僕が銀魂を見るようになったきっかけというのは↓のサイトで紹介されていたからなんですが
http://www.geocities.jp/wakusei2nd/32g.html
成馬:市民さんは何で『銀魂』好きなの? 俺は一巻の一話読んで「凄 い」って思ったけど。
市民:やっぱさ、「生き残った新撰組と維新志士」ってモチーフが現代的で魅力的だよね。昔「歴史の終わり」って言葉もあったけどさ(笑)、近代っていうか20世紀の両対戦以降、歴史に個人がコミットするってことができなくなってきてるわけじゃん。歴史とか社会が自分の生きる意味を与えてくれなくなっている。よっぽどバカだったり、モテない恨みが溜まっていないとまずプチウヨやバカルスタにはならない。
つまり今の世の中では自分が生きる意味ってのは自分で探さないといけない世の中になっていて、『銀魂』の世界ってのもそうなんですよ。歴史に与えられた「生きる意味」を全うするという意味では、『銀魂』のキャラたちはもう負けちゃってるんですよね。
成馬:「天人」っていうエイリアンに占領された幕末の江戸って設定で、ひっくり返せないってのが前提なんですよね。
市民:桂小五郎とか新選組をモデルにした人物が出てくるんだけど、彼等は二通りにわかれてるんだよね。歴史が終わった後の世の中を彼等なりに楽しく生きていこうっていう銀さん達と、やっぱり歴史は終わってないって 言って過激派テロリストになる高杉たち。それで作者は銀さんの側に共感してるんだよね。
成馬:ロマンがないと生きられない人とロマンがなくても楽しく生 きられる人の対立だよね。
市民:いや、それはちょっと違って、歴史や社会との関わりの 中にロマンを見出す過激派たちと、ロマンは日常の中にあるんだっていう銀さん達との対立かなぁ。銀さんってどんなくだらないバカーな事件でも一生懸命解決 しようとするじゃん。
成馬:日常派って感じでね。くだらない事件って一杯あるよね。
市民:女装してキャバクラ嬢になりすましたり、大食い競争に 参加したり(笑)。
成馬:キャバクラセンスってあるよね。ホストとかオカマバーとか。ああいう安っぽい感じ大好きなんだよなぁ。
市民:銀さんは日常の中にロマンを見出してるんだよ(笑)、それでロマンを自分で探すことができる。でも高杉たちは歴史にロマンを見出すことを諦めきれなくて、テロリストになっちゃうんだよね。「日常を楽しめ」っていうとさ、バカな連中 は 「お前はロマンを諦めたシニシストだ!」とか噴きあがってくるけど(笑)、救いようがなく浅いよね。ロマンは日常の中にいくらでも転がっているんだよ。それを自分の力で見つけ出せないお前たちが無能なんだって(笑)。
この人特有の煽りっていうのはあるんですが、それを差し引いて読めば、まさしく銀魂の魅力っていうのはこのサイトの書いてある通りで、「余分なものを削ぎ落とす」とか「この世界を壊すだけだ」という一つの道だけしか見えていない高杉とかに対して、銀さんたちというのはそういう一つの道に突き進むことで落としてしまう色々な「余計なもの」こそが大事なんだというわけです。
そして、だからこそ映画の途中にもちょくちょくどーでも良いけど笑えるギャグが出てくるわけで、そりゃ確かにこれらのギャグも映画の本筋にとっては「余計なもの」なのかもしれないけど、でも笑えるでしょ?そういう「余計なものによる豊かさ」っていうのがまさに重要なわけです。
シリアスとギャグ
でもまぁ、銀魂についてよく言われることに、「ギャグは面白い。けどシリアスいらなくね?」ということが特に原作に関しては言われます。で、まぁ正直僕もそういうことを思ったりはするわけです。
ただその点について言うと、この映画版においてはむしろギャグが多めになっているので、上記のようなことを感じたりする人も心配はいらないと思います。やっぱり映画っていうまとまった時間があるっていうのが良いのかなー。やっぱり30分であったり連載一話分っていう短い中だと、ギャグはともかく、シリアスはまとまった時間が必要ですからどーしてもシリアスをやろうとするとそれだけになってしまう。その点劇場版ではきちんとシリアスをやりつつギャグもやることが可能になったんではないでしょうか。
まとめ
ただ一方で、そういう「余計なものが楽しい」というとこをやりながらも、紅桜編って言うのはやっぱり銀さんの過去が描かれるところでもあるわけです。そしてその過去においては高杉や吉田松陽との絆も描かれるわけで、その絆を振り切ってしまうという「痛み」も存在するわけです。
先ほどあるサイトの文章を引用しましたが、しかし実はこの文章のような主張は、言い方の過激さをのぞけば実は殆どの人に共有されていることではないでしょうか?それこそ今の時代、政治とかそういう難しく辛そうなことに本気で関わろうなんていう人はむしろ少ないわけで、だからこそ別に何も特別な事件なんか起こらず、普通の日常がたんたんと描かれるような、いわゆる「日常系」、あるいは「空気系」のような作品が喜ばれるわけです。
で、まぁ僕もそういう作品は大好きなんですが、しかしただそこで一方思ったりすることとして、「でも、そういう作品は『日常の楽しさ』を描いているけど、でも日常って楽しいことばかりじゃないよね」ということがあるわけです。例えばそういう作品って言うのは大抵同じ仲間とだけ付き合っているわけですが、しかし実際の人生ではいつか「別れ」が来たりしますし、その別れが幸福なものであるとは限らない。
そこで僕が不安に思うのは、そこで「日常は楽しい」ってだけしか知らない人は、むしろただ世界を憎んでいた人よりもより激しく世界を憎むんじゃないかっていうことです。ちょうど高杉が吉田松陽先生を大事に思っていたからこそ、その人を奪った世界を憎むように、もし「日常は楽しいから大好きだー」という人が、その日常を壊されるような出来事にあったとき、その人は思想とかに基づいていた人より強烈に「この日常を壊した世界を憎む!」ってなってしまうわけです。
そのようなことに対するメッセージとして、紅桜編ではシリアスに銀さんの過去が語られ、そしてそういう過去が銀さんにもありながら、でも銀さんは色々楽しく生きている。つまり、人生は楽しいことだけでなく辛いこともある。でも、辛いことがあったとしても、その過去に縛られず、人生は敢えて楽しく生きなきゃならないっていうことが語られているのかなーなんてことを、僕は思いました。
でもまぁ、そんなこと深く考えなくても、銀魂はこの劇場版含めて面白いアニメですので、是非みなさんにお勧めします!そして、劇場版見た後は、ちょうどテレビ東京で「よりぬき銀魂さん」というのもやっていますし、それが放映されていない地方でも、レンタルDVDとかありますんで、是非TVアニメの方も見て欲しいなーと思います。
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芝居のテンションも高くて良いですね
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