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見たり聞いたりしたこと

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別に熊を助けたいとか特に思わないが

なんかはてブで挙がっていた記事に妙な違和感を覚えたのでメモをしておく。

野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さんへ - 紺色のひと

まぁ大体もう既にブックマークコメントで言われていることなんだけれど。

はてなブックマーク - 野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さんへ - 紺色のひと

nemoba 人と自然の関係の自己主張をしたいがために、熊森への批判がピンボケしてないか。安易な自然保護は時として害でしかないが批判の本質なのでは。

Zarathustra1951-1967 自然保護, 環境 後半は全く不要;というかこれを言うなら「自然保護や環境保全は『人間のため』である」と考えない人は、どう考えたら良いか示すべき。人類の為と言って優生論持ち出す人には「それ位なら滅んだ方がまし」と私は言う

はてなブックマーク - はてなブックマーク - 野生のクマをなんとか助けたいとお考えの皆さんへ - 紺色のひと

ketudan そもそもa「団栗撒くな」とb「自然保護は人為上等」は関係ない気が。b飲ませなくてもaの説得は出来るしb認めずとも団栗撒ける(「人間が壊した分の埋め合わせだから団栗撒きは自然干渉ノーカン」て言うでしょ)。

「紺色のひと」では野生のクマが人間の里に降りてきて射殺するのが可哀想だから、森にクマのエサであるどんぐりを撒いてクマが人里に降りないようにするという、「日本熊森協会」というところの活動を紹介して、しかしそれをこう非難する(余談だが、相手がリンク先の文章を変える恐れがあるかといって、魚拓のURL「だけ」をリンクするというのは、ちょっと嫌な感じを受ける。魚拓も併記するというのなら分かるのだけれど、魚拓だけ載せるって言うことは、相手に「適切な」訂正をする権利さえ奪うっていうことなわけで)。

【ドングリ運びの問題点について】

ドングリ運びの目的について、熊森では

豊かな森を再生させるまでの間、山の実りの凶作年に都会のどんぐりを拾い、山間地の地元の方々と協力して食糧が無くて人里に出てこざるをえないクマをはじめとする山の動物たちに届け、人間のところに出てこないようにすることです

日本熊森協会 知らせたい事 > どんぐり運びについて(ウェブ魚拓)

としています。

これに対して僕が感じた問題点を一言で言い現すとすれば、

クマに餌を与えたら、問題は解決するのか?

という点です。

いくつか考えてみましょう。

  1. 野生動物は、厳しい自然の中で孤独に、しかし強く生きています。クマに餌を運んで“あげる”活動は、自立して生きている命を上から見下ろした、駆除や殺処分と同様の傲慢な行為だとは思いませんか?
  2. 飢えたクマに餌を与えることで、餌を食べたクマはその冬を生き延びるかもしれません。冬眠の季節を終え、春になるとメスのクマは子供を産み、個体数は増えることでしょう。では、その翌年はどうでしょうか? このやり方を続ける限り、個体数は増え続け、クマは人間の与える餌に依存していることになります。果たしてそれは、自然な状態と言えるでしょうか?
  3. 飢えたクマに餌を与えることで、クマは無事冬を越せるかもしれません。でも、お腹をすかせているのはきっとクマだけではないはずです。クマやドングリを餌とする動物だけに餌を与えて、森にすむ他の様々な動物たちを無視するのは、自然保護として不公平ではないでしょうか?
  4. 「(ドングリ運びがたとえ)焼け石に水でも、1日1頭のクマを救うために」活動を続けているそうですが、人間が餌をくれることを覚えたクマが「もっと餌をくれ!」と人里に下りてきてしまったら、活動は逆効果になる可能性はないでしょうか?

熊森のこの活動は、「ドングリを『運ぶ』」「食料を『届ける』」「クマを『助ける』」という言葉で言い換えているものの、野生動物に対する『餌付け』に他なりません。『自然とは人間が手をつけていないもの』『人間が自分の都合のいいように自然を保護したり管理したりしようとすることは、自然保護ではなく自然に敵対する行為』という考え方を持つ団体が、一方で自然に生きる動物たちに餌付けをしているのは明らかに矛盾で、ダブルスタンダードです。

日本熊森協会 知らせたい事 > 熊森見解(ウェブ魚拓)

僕の立場からの疑問

えーと、ちょっとここでまず僕の立場からの疑問を言っておきます。

  • 挙げられている「問題は解決しない理由」の内、「どんぐりやり活動をすれば熊が人里に降りてこなくなる」という因果関係による問題の解決を否定しているのは、4番目の「人間が餌をくれることを覚えたクマが「もっと餌をくれ!」と人里に下りてきてしまったら、活動は逆効果になる可能性はないでしょうか?」だけじゃないの?

という点です。だって、別にそれが傲慢だろうが不自然だろうが不公平だろうが、別に「傲慢」も「不自然」も「不公平」な行為だろうが、問題は解決することはあり得るわけです。例えば「熊が人里に降りてこない様に日本の熊を全部収容する動物園を作る」というやり方だって、その3つには見事にあてはまるわけですから。

しかしそして更に言えば、おそらく4番目の根拠となっているのは、文中で後述されている以下のサイトの記述

楽山舎通信−熊に柿を与えるのは「まちがい」では

だと思われるのですが、しかしこれはあくまで柿の実が「餌付け」にあたるのではないかという主張なわけです。どーなんでしょう?僕は熊のことなんか全然詳しくないんでよく分からないんですが、そりゃあ柿が何もないところに柿の実が置いてあったらそりゃ人間がくれたんだっていうことが分かりそうですが、落ちてるどんぐりが多かったとして、それが「人間がエサをくれたんだ」って分かるもんですかねぇ?まぁ、ここら辺は「ちゃんと知りたいんならきちんとググれカス」ということなのかもしれませんが。

ただ、ここまで言った僕の疑問っていうのは、あくまで「熊が人里に現われて人を襲い、その熊を殺さなきゃならなくなるような事態」だけを問題ととらえている立場からの疑問です。

つまり僕の立場って言うのは、そもそも「熊が可哀想」とか「自然を破壊しては良くない」とか、そういうのはどーでもいいんですね。ただ、ニュースで何度も獣害のニュースが伝えられ、獣害そのものによって人や農作物が被害を受けるというコストもさることながら、その度に猟友会が出動し大騒ぎを繰り広げることによるコスト、そして更に言えば、僕は猟銃規制強化論者なので、熊みたいな凶暴な野生動物が出現することによって猟銃を個人が所持することが正当化されることを苦々しく思っているところもあり、そんな中で「ドングリを撒けば人里に熊が降りてこなくなる」という話を聞いて、それだったら猟銃も使わず、対処療法的に殺処分を行うより少ないコストで、獣害の発生を抑えることが出来るんじゃないのかと、そういう立場から熊森の活動を「良いんじゃない」と思った人間な訳です。別にそういう活動を行う団体がどういう思想を持っているかは関係ありません。それこそ「黒い猫だろうが白い猫だろうがネズミを捕るのが良い猫だ」という感じです。そういう立場からすると、今回の記事は「ドングリ捲き」という行動そのものに対する批判としては、正直説得力がありませんでした。

「クマがかわいそう」立場からの疑問

ただ、そもそもこの記事はそういう僕みたいな立場の人間のために書かれたものではないのかもしれません。実際、この記事の著者はセルフブックマークコメントでこんなことを言っています。

はてなブックマーク - 野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さんへ - 紺色のひと

Asay 環境, 生物 熊森のドングリ運びの問題点と、野生生物保全に対する僕の考え方を書きました。生態学には馴染みがないけれど、かわいそうなクマに何かしてあげられないかな、と思っている方を読み手と想定しています

別にクマが可哀想とか思ってませんからね僕は。熊に襲われて人が死んだというニュースを聞くたびに、野生のクマなんて全部絶滅させちまえばいいのになーという感じな都会っこですから。

ただ、もし「クマがかわいそう」と思う立場に立ったとしても、この記事はちょっと疑問なわけです。

  1. 野生動物は、厳しい自然の中で孤独に、しかし強く生きています。クマに餌を運んで“あげる”活動は、自立して生きている命を上から見下ろした、駆除や殺処分と同様の傲慢な行為だとは思いませんか?
  2. 飢えたクマに餌を与えることで、餌を食べたクマはその冬を生き延びるかもしれません。冬眠の季節を終え、春になるとメスのクマは子供を産み、個体数は増えることでしょう。では、その翌年はどうでしょうか? このやり方を続ける限り、個体数は増え続け、クマは人間の与える餌に依存していることになります。果たしてそれは、自然な状態と言えるでしょうか?
  3. 飢えたクマに餌を与えることで、クマは無事冬を越せるかもしれません。でも、お腹をすかせているのはきっとクマだけではないはずです。クマやドングリを餌とする動物だけに餌を与えて、森にすむ他の様々な動物たちを無視するのは、自然保護として不公平ではないでしょうか?

まぁ繰り返しになりますが、傲慢だろうが不公平だろうが不自然だろうが、別に「かわいそうという感情は謙虚で自然で公平な立場に基づいてなきゃならない」という決まりはありませんから、厳密には「かわいそう派」に対する説得にはならないわけです。

しかも問題なのはここで「謙虚」「自然」「公平」という言葉が極めてマジックワード的に使われていることです。まぁ、そもそもこれらの単語は本来マジックワード的な言葉なんだから仕方ないですが、しかしそれにしたって恣意的すぎ、そしてそれ故に、あまりに脆い論理構成に見えます。例えば「クマに餌を運んで“あげる”活動は、自立して生きている命を上から見下ろした、駆除や殺処分と同様の傲慢な行為」という言葉だって、ちょっと考えれば即座に、「人間だってお腹が空いて死にそうな人を見れば食べ物を恵みたくなるが、それは普通『傲慢』とは言わないだろう」と反例が思いつくわけです。

「価値観」の話は結局平行線―それよりも「手段」の問題こそが重要

ここで、そもそも一体どういう意味がこれらのマジックワードに込められているか。考えてみる必要があります。そこで鍵となるのは記事の後半の文章になるわけですが……なんだかなぁ……

【「自然に生かされている」という自然保護観について】

熊森では、団体の基本的な考え方として、

《自然とは》

(前略)刻一刻と変遷し続けていくもの。それが自然です。自然とは人間が手をつけていないものです。この自然の大きな流れの中で、生かされているのが私たち人間なのです。

《自然を守るとは》

(前略)人間による自然の利用を必要最低限にとどめ、それ以外の部分は手付かずで残す、それが私たちの祖先が実践してきた最良かつ唯一の方法です。一度バランスが崩れた自然を元に戻すには、自然の力に任せるしかありません。人間が自分の都合のいいように自然を保護したり管理したりしようとすることは、自然保護ではなく自然に敵対する行為です。

日本熊森協会 知らせたい事 > 熊森見解(ウェブ魚拓) より引用

と掲げています。

ところで僕は、「自然保護や環境保全は『人間のため』である」と割り切って考えるようにしています。これは引用した熊森の考え方と大きく異なるものであり、そして非常に傲慢な考え方です。僕の考えを以下にまとめます。

「自然との共生」「地球との共存」などという言葉があちこちで聞かれるようになりました。僕は、共生や共存という言葉は、傲慢でおこがましいものであると強く感じています。クマが他の生物――ドングリや、ヒグマならサケなどを――食べて生きてゆかなければならないのと同様に、人間だって他の生物なしでは生きてゆけません。だからこそ、他の生物の中で生きてゆかなければいけないからこそ、駆除や射殺などの残酷で傲慢な手段も含めて、必死で関係性を構築しようと努力せざるを得ないのです。

人間は知識と道具を持ち、地球に生きる生物「ヒト」という種として、他の種よりも明らかに繁栄しています。だから傲慢になってもよい、というのではありません。自らの力が強大であることを自覚した上で、頭数管理や生息環境保全など、他の種に干渉して、どちらも生き延びるための手段を取らなければならないのではないでしょうか。

環境省の「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律」、通称「種の保存法」の第1条にはこんな文面があります。

この法律は、野生動植物が、生態系の重要な構成要素であるだけでなく、自然環境の重要な一部として人類の豊かな生活に欠かすことのできないものであることにかんがみ、絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存を図ることにより良好な自然環境を保全し、もって現在及び将来の国民の健康で文化的な生活の確保に寄与することを目的とする。

絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律 第一章 総則

自然保護は人間サマのため、と読めますよね。上等だ、と僕は言いたいのです。アリが生きるためにアブラムシの世話をするように、ヒトは、他の生物種がいなければ生きてゆけないからこそ、自分たちが環境に与える影響を少なく、なるべく自分たちが生きやすいように、エゴイスティックに恐る恐る生きているのだと僕は考えています。

「自然のためには人間がいなくなればいい」と考えたことのある方は少なくないでしょう。でも、自然や地球のために自分たちの種を絶滅させることは、ひとつの命としてあってはならないことです。自然の力がどんなに強く大きくても、自然に人間が生かされているのではありません。自然の中で、僕たちは生き延びているのです。

なんつーか、ま、とても素敵な文章だとは思いますよ。こういう文章ってよく評論コンクールや弁論コンクールとかで優秀賞取るんですよねー。僕も昔よく図書券もらいました。まぁ、コツさえ覚えればほとんど自動書記できますから。

と、茶化すのはこれぐらいにして……

まぁ、僕もこういうことを議論することそのものは好きです。ですから、この文章に対して僕が思うことについても最後に書くつもりです。ただ一方で、こういう議論って、要するに「私はそうは思わない」の一言で、否定しようと思えば否定できてしまうんですよ。何故なら、これはあくまで「価値観」の話ですから。私が何に価値をおくかの話であって、そんなもの究極的には個々の人間が内心で決めることですから、そこで幾ら「私は自然保護とはこういう理由から行うべきだと思うのです」という話をしても、きつい言い方をするならば、「お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ん中ではな」という話でしかありません。

もちろんそういう議論をすることを否定はしません。しかし、「野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さんへ」という記事のタイトルで集まる「皆さん」が求めているのは、そういう決着が絶対つかないような「価値観」の問題ではないと思うんですよ。そうでなく、彼らは既に「クマが銃で撃たれていることはかわいそう」という価値観を持っていることを前提で、そしてそのクマを(彼らの価値観で言うところの)かわいそうな状態から助け出す「方法」を探しているわけです。それに対して熊森は明確に「どんぐりを撒く」という方法を示したわけです。とするならば、それを批判したいなら、その「方法」の妥当性・合理性こそを批判しなければならないわけです。具体的に言うならば、「○○という理由により、ドングリを撒いても熊は人里に降りてくる」と述べたり、「ドングリを撒いてクマが人里に降りてこなくても、クマは結局死に、『かわいそうな状態』になってしまう」と述べたりすべきであり、そして出来るならば、「ドングリを撒く」ではない、彼らの価値観を満足させる対案を出すべきなのです。筆者は

クマの問題に関わらず、様々な環境問題は、要因が複雑で原因と結果がはっきりしないことが多く、なかなか理解することが難しいものです。「お腹を空かせた森のクマさんにご飯を届ける」という活動は実にわかりやすいものです。そして、そのわかりやすさは、「本当にこれでいいのか?」と考える機会を失わせる危険を内包しています。けれど、複雑な系に「これさえやれば問題なし!」なんて一発解決の妙手は存在しません。

と述べています。しかし一発解決が無理なら、それこそ二発だろうが三発だろうがかまいません。一つの手段ではダメというならいくつの手段を併用する方策を考えればいい。そういう「方法」から逃げて、それこそこの記事の大半のように単なる「価値観論争」しか出来ないのが生態学の知見とやらならば、はっきりと言いましょう、そんなものは科学ではあり得ない!と。

じゃあどう書けば良いのか

まず一番良いのは、問題の焦点を「手段」に限定することです。そして、「熊がかわいそうな状況(具体的に言うならば、熊が人間の手によって殺される状況)を改善する手段として『ドングリ撒き』は適切ではない」ということを、それこそデータや観察などの研究に基づいて言えばいい。

ただ、あくまで価値観の問題を突き詰めたい、「熊が人間の手によって殺されている状況」を改善するためなら何をしても良いという価値観を何とかしたいと考えるなら、途方もない価値観論争をしても良いでしょう。途方もないとは言いますが、それによって相手の価値観を変えることも可能かもしれません。また「熊を助けるためなら何したって良いとは思わない価値観」が多数派になったならば、そこで立法なり司法なりを動かして、法的にだったり行政的にだったりといった方法で「ドングリ撒き」を禁止できるかもしれません。ただ、そのような価値観闘争を推し進めるならば、それは「野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さん」との全面闘争になることを覚悟しなければならないでしょうし、またすべきでしょう。つまり、「クマを助けるためなら何をしたって良いと思っている奴らは私たちの敵だ!」と、明確に述べるべきです。

ところがこの記事はそのどちらでもない。どっちつかずと言っても良いかもしれませんが、最初いかにも価値観を共有しているような顔をして近づいてきながら、じゃあといって読み進めてみると、そこに書いてあるのは「お前の価値観そのものが間違っているんだ」という文章。たとえて言うならば、資料の整理法やプログラムの書き方というような実践的な方法を知りたくて開いた仕事術のページが、読んでみると実際は「自分が上手くいくと信じれば全て上手くいく!」というような自己啓発だったり、あるいは「この世界は全て大いなる存在によって操られているのです」というような宗教だったりしたような、そんながっかり感が、この文章にはあるような気がしてなりません。

最後に、ちょっとだけ価値観の話

といっても、繰り返しになりますが、まぁ個人的にはそういう話は嫌いではありません。ので、最後にちょっと、蛇足ではありますが、価値観の話にも首を突っ込んでみましょうか。興味がある人はどうぞお読みください。なかったら読まなくて良いです。あくまで蛇足なので。

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「現実による脅し」はもう通用しないのかも

気付いたらブログ一ヶ月以上更新してなかったです。いやまあ、色々忙しさに打ちのめされてました。というか、今もしなきゃならないことは山積みなんですけどね。

というわけで今回は久しぶりの更新なのでネタ多めで。

カンパネラの町並みがおかしい件 - はじめてのC お試し版

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あつい!

  • 7月の始まりでこの暑さってことは、一体8月になったらどんなことになってしまうのだろうか……
  • いやー、にしても最近フジテレビはマツコ・デラックス好きだなぁ。
  • フジテレビといえば、踊る3ってどーなんでしょうかね。映画ファンにはとかく嫌われている踊るシリーズだけど、まぁでも日本にはあの程度の「まがい物」がちょうど良いというか、それで実際僕も含めて楽しめちゃうわけだし。
    • ただ確かに交渉人はちょっとあんまり……(つーかパトレイバーをぱくりすぎ!)だったわけで、それと似たような感じになってたら確かにちょっと避けたい。
  • 最近映画館で見た映画が『ヒーローショー』、『アウト・レイジ』という暴力ものばっかなのは、なんかの深層心理の反映なのだろうか……
    • いやしかしどちらも大変良い映画でした。なんつーか、みんなむしゃくしゃしてるんだけど、そのむしゃくしゃがほんと直接的に周りの人に向かっちゃってるんだろうなぁ。昔だったらそれこそデモ隊に突っ込んでくる警察とかをぶん殴れたわけだけど、今はそういうのないもんねぇ。
      • 「行動する保守運動」とかはそういうものになりつつあるのだろうか。ということは保留。
      • ただ最近の警察の統治技術っていうのはすごいからねぇ。長野での聖火リレーとか、あれだけ双方が血気盛んな中で大規模な衝突なんかが起こらないってことは、秩序の維持という意味ではほんとすごいんだけど、一方でそれだけ警察に「牙」を抜かれているということでもあるんだよなぁ。
  • 「暴力」といえば、すべらない話という番組で何かあったそうで、id:FUKAMACHI氏が記事を書いていた

http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20100630

  • -『ヒーローショー』が『ドロップ』への意趣返しとして作られたという話は面白い。あーなるほど、「ひとは簡単に死なねぇ」とかうそぶいていた奴らが実際に殺しちゃう話だもんなあれ。
  • ヒーローショーについては↓の映画評が必見

http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20100603/p1

  • -いやしかし、ほんとふとしたところからああいうヒーローショー的世界にもしかしたら自分も墜ちてしまうかもしれないという恐怖は、僕も見ているときにひしひしと感じた。
    • あれがもしほんとに元からヤンキーだった人だけのお話なら、まぁ「痛そうだなー」とかは思いながらも、まぁ他人事のエンターテイメントとして消費できていたと思うんですよ(実際『アウト・レイジ』はそんな風に楽しめたわけだし)。ところがヒーローショーは、「もしかしたら自分もいつかは……」みたいな他人事ではない恐怖をひしひしと感じてしまって、ほんと見てから3日間はうなされましたもん。
    • でもまぁ、だからといって何か生き方を反省したりすることも特にしないわけですが。
  • しかしあついなぁ……と、おそらく自分が「あつさ」を呟くことによって、それよりさらに重要な何かから目をそらしていることに気付きつつ、今日も「あつい!」と僕は呟く。めでたしめでたし。
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何故ある種のエロゲ好きに白痴が多いのか

「ある種の」というのは、具体的にはid:nakamurabashiと、それに同意したり感動したりしているようなはてブのブックマーカーたちを指しますw

「俺ら」と「AIR」 - G.A.W.

はてなブックマーク - 「俺ら」と「AIR」 - G.A.W.

これだけ長い文をぐだぐだと書きながら、結局言っていることと言ったら「ぼくはかんどうしたからかんどうしたのです。」というような、今時小学生でも書かない感想文であり、知的思惟の痕跡すら感じられない馬鹿しさ。まー端的に白痴と言って良いでしょうね。

何より僕が頭に来るのが、最初に質問者が出している問いでもある「何であんたたたちはそういうキャラが好きなんでしょうか」という問いに対して、散々言葉を弄しながら、結局その質問者という他者に分かるように説明するのではなく、「情念」とか「すべて」なんていう、はなから理解されることを期待していない言葉でもって、自らの感情を確認しているだけという、その不誠実さなんですよ。

別に僕は、明らかにプレーヤーにとって馬鹿に見えるように作られた、そんな白痴ヒロインが好きだとか、あるいは女の子が病気になって死ぬというようなそんなkeyゲーム的シチュエーションが好きだといっても、別にそれだけで非難の対象になるとは思いません。だってそんなこと言ったら僕なんか、主人公を好きであるが故に狂ってしまうようなヤンデレヒロインが大好きだったり、あるいはそれこそそういうヒロインたちが、愛憎の果てに殺し合うような修羅場シチュエーションが大好きだったりするんですから。単純的に倫理的な評価でいうならば、keyゲーム好きより僕の方がよっぽど極悪非道です。

ですが、僕は別にそれが自分の、他人に理解されない「情念」みたいなもんとは全く思ってないわけですよ。むしろ、こんな萌え、別にごく単純で卑小なものであり、それは簡単に、社会的な背景から説明できると思っています(実際そのような作業を、僕は相互理解不可能性としての「狂気」を噛み締めて、それでもコミュニケーションをしていくという記事でしたつもりです)。そして、そのようなことは、絶対泣きゲーとかに萌えている連中にも適用できるはずなんですよ。特にkeyゲームなんて、あれだけ多く売れたんですから、そこに社会的な類型を見いだすのなんか本来はきわめて簡単なはずです。ところが泣きゲーとかが好きなやつらはそういう風に、自らの「萌え」が、一体どういう社会的文脈に基づいているか(例えばABにおいて指摘された「女の幸せ」という言説とか)とか、あるいはせめて、泣きゲーの中のどういう表現がそういう「萌えさせる」機能を持っているかとかいう解釈を全然しようとせず、まるで自分たちの「萌え」が神から与えられた高尚な能力であり、それは決して他人に理解可能な形で説明できないと思っている、その思い上がりが、はっきりいってイライラするわけです。

しかし実際は、むしろこういうイライラするような「自分はそんな社会には還元できないような情念があるからこのエロゲーに萌えるんだ。そしてそんな情念を持つ自分は高尚である!」というような駄文がさんざん繰り返されてきたのが、エロゲ批評の殆どだったりするわけで、このid:nakamurabashiは偉そうに

コメント欄やブコメで触れられているように、そのへんの議論はすでに語りつくされきって枯れた話題でしかない。

なんて言ってますがね、「すでに語り尽くされた」のなら、なんでこういう質問者みたいな質問が絶えることがないのか?答えは簡単。行われたのが他者と理解し合うために行うような「議論」ではなく、ただ自分の「情念」や「思い」を独我的に叫ぶような、クソみたいなことでしかないからですよ。

この記事では、そんなクソの再生産を止めるために、その「クソの再生産」の典型例であるこの記事を、「『物語ではない』という主張の詐術」「個別要素を直視することからの逃げ」「『外の世界』という藁人形」という三段階に分けて分析していきます。そして、その分析から、どうすれば私たちは、id:nakamurabashiの記事のような「白痴によるクソの再生産」を避けながら、作品について語ることが出来るか、考えていきたいと思います。

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音無とだーまえをひっぱたきたい

AngelBeats!(AB)最終13話に対する感想を一言で表せばこうなるんじゃないかと、感想をまとめたブログなんかを読んだり、twitterでの議論を見たりしながら思いました。

Twitter / Search - #Angelbeats

今日もやられやく 春アニメ話題作 『Angel Beats!』最終回・・・お前らどうでしたか?

『Angel Beats!』#13(最終回)で、仲間が消えた後、音無が奏に「ここに一緒に残ろう」と言い出して非難囂々 :Syu's quiz blog

どういう所が非難を浴びているか。端的に挙げれば次のようなことです。

『Angel Beats!』#13(最終回)における、音無やる夫のAA :Syu's quiz blog

1
要するにこれまで散々他人を「成仏」させてきて、最終回でも卒業式をやって「みんなで成仏しよう!」とか言っていた主人公の音無が、いざ二人きりになったら途端に「いや成仏はやっぱやめよう」とか言い出す態度、それを見て多くの人が「はぁ!?」と怒っている。そういうわけです。

もともとこの音無はABの中盤ぐらいからゆりっぺと音無はともにかなり非難されてきました。ゆりっぺはその行き当たりばったりに見える変節加減から。そして音無は、「次は誰にするかなー」と、その世界から人を消し去るという、普通に考えたら殺人と同じようなことを、なんの罪悪感や疑問を感じずに行っていることからでした。

http://twitter.com/sweetsnow/status/15946189841

生まれてはじめて、アニメにマジギレしそうになった。それは、音無が「次は誰にするかな」とサラッと言い放ったからだ。「今日の昼飯なににしよう」くらいの軽いノリで。こいつ人様の命をなんだと思ってやがる。善かれと思ってやっているのがまた腹が立つ。ありえん。

でこの内、ゆりっぺの方は、まぁ最終回においてはなんやかんやで天使ちゃんとも仲良くなって、今までのことを反省しながら勝手に成仏していったから、あまりやり玉にはあがらなかったわけですが、音無の方は先ほど述べたような理由から、それこそこのABという作品の業を一身に背負うかのように叩かれている、そういうわけです。

しかし一方で、じゃああそこで音無が「そいじゃ一緒に成仏しようぜ!」と言ったらABは何も批判されるところのない傑作となったのか?そんなことはないと僕は思うんですね。というかむしろ、あそこで「やっぱ成仏やーめた」と言いたれることが出来てしまうという事実が、このABという作品の本質であるとすら思っているわけです。ですから、もしあそこでシナリオを修正して音無が成仏を選択したとしても(そのような可能性は最終回の最後において示されています)、それは「言い訳」にしかならないでしょう。

今回の記事では、なぜそうなるのか、「顕彰のための施設としての『学園』」、「敢えて描かれなかった『ゆりっぺ』」、そして「私たちの鏡像としての『音無』」という三つの視点から考えていきたいと思います。そして最後に、ではこの作品はどのように評価すべきなのか、というかなぜ「音無とだーまえをひっぱたきたい」という感想を抱くのか、僕の思いを述べたいと思います。

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